紅梅の雪」2






素肌に当たる、上等の絹の肌触りが嫌いだ。
私は目を覚まして、天井を見上げて、それから背中に当たる布の感触に眉を顰めた。
私の目覚めは大抵不機嫌だ。

「ニア、目が覚めたか」

動くのも億劫だったので、首だけ動かして声のした方を見ると、着物を軽く羽織っただけのメロが、隣の部屋で火鉢を抱いていた。
緩く結んだ帯の端から、程よく引き締まった肢体が見えている。
本当に同じ生き物なのだろうか、と時々私は信じられなくなった。
私を力ずくでこの絹の上に押さえつけるあの生き物が、非力な私と同じだと言うのか、本当に。

「メロ……、こんなところで油を売ってていいんですか?お店は、」

「あと少し温まったら行くよ。ニアが起きた時、部屋が寒いんじゃ起きたがらないだろうと思って、部屋を温めてたんだ」

「嘘ばっかり。自分が寒いから、火鉢をつけてただけでしょ」

機嫌を損ねた声で言えば、メロは気にした様子もなく笑っている。
私はますます不機嫌になる。
メロは煙管に火を入れて、溜息でもつくように煙を吐きだした。
離れている私の所にも、その燻った香りはそっと忍び寄ってくる。
吸い込めば、肺をゆるゆると侵していく。

「あの使用人、どうだ?気に入ったか」

「使用人って、マットのことですか」

メロから再び天井に視線を移していた私は、まだ夢現な思考回路でメロの言葉を聞いていた。
マット、彼が新しい私の世話係になって、一週間ほどが過ぎた。
私は昨日の晩の食事を思い出す。
最初は緊張していたのかほとんど会話なんかなかったが、最近はもう随分と打ち解けている。
仲良くなってみると、マットは気さくで話も上手い、面白い奴だった。
だから、私は余計気の毒に思う。

「悪くないですね。馬鹿じゃないし、頭の回転も速い方だ」

「そうか。本当に、馬鹿じゃないことを望むよ。今までの奴等みたいにさ、」

私はメロが嫌みを言っているんだということが分かっていて、あえてその言葉に返事をしなかった。
さっさと出て行けばいいのに、と思う。
本当は顔も見たくない。

私は寝返りを打つと、頭から布団をかぶって、メロの気配と吐き出された煙から自分自身を守る。
蹲った布団の中で自らの体を抱くと、薄暗い視界の中で白い肌に散った赤い花が目につく。
私はこの上ないほど不機嫌になる。
こうやってあいつは、まるで私を自分のものだと鼓舞するかのように、印を刻む。
消えればまた何度も何度も、うんざりするくらい、執拗に。
爪を立てて引っ掻くと、その赤い痕に鋭利な爪の傷が入る。
肌に食い込む爪の感触を感じながら、私は少し目を細めた。

暫くそうして露骨にメロを拒否していると、メロが煙管の灰を落とす音が聞こえて、その後すぐに立ち上がる、衣擦れの音。

「ニア」

気配がすぐ近くまで迫っていたが、私は相変わらず閉ざして返事をしなかった。
メロの手が、布団越しに私に触れる。
私は眉根に皺を寄せて、やめろ、と思った。
そんな風に、まるで「慈しんでいる」と言いたげな所作で、私に触れるのはやめろ。

「ニア、また晩に来る」

遠ざかって行く足音を聞きながら、私は唇を強く噛み締めた。

私はこの男が、世界で誰よりも嫌いだ。


***

「本を読むのは好き?」

目の前に座って味噌汁を啜っていたマットは、すでに昼食――私にとっては朝食でもあるのだが――を食べ終えて火鉢にピタリとくっついていた私に尋ねた。
視線は手元の本を見つめている。

「好きですよ。ここにいると特にやることもないし、外のことも分からないんですけど、本を読めば少しは分かるから」

「そう、」

マットが、「なんか拙いこと聞いたかな」と思っているのはすぐに分かった。
マットはすぐに感情が表情やら声色に出る。
おちょくり甲斐があって楽しいので、私はこういうところも気にいっている。
特に、初日に私を女と思いこんで慌てていたのは傑作だった。
その次の日に一緒に初めて一緒に食事をした時も、明らかに動揺していた。
一週間たった今では、もう随分慣れたようだが。
それにしても、少し突けば過剰な反応をするマットが、新しく与えられた玩具みたいで、気に入っていた。

「ここはつまんないですよ。気に食わないことは山のようにあるけれど、面白いことは一つもないし、楽しいこともありません」

「えっと……ニアはさ、出たいとは思わないの」

「そんなこと、年がら年中思ってますよ。ねぇ、マット、私知ってるんです。使用人の中には、私の立場を羨んでる人がいるんでしょ」

からかうつもりで尋ねると、案の定マットは辟易した様子で私から目を逸らした。
分かりやすく、面白い。

「働かないでもご飯が食べれて、一日中ぐうたら寝て過ごしてればそれでいい。それだけでメロが本や玩具を与えてくれる。良いご身分だってね」

「それ……誰から聞いたの?」

「前の世話係の娘から聞きました。まったく、ふざけた話ですよ。ここは、地獄です。私の意志では何一つ思い通りにならない。 私はメロのためだけに生かされているようなものです」

マットをからかうつもりで話をし出したのに、気付けば愚痴になっていた。
けれど、私は一度堰を切って溢れてしまったものを押し留めておくこともできず、重い息を吐きだして眉を顰める。
前の使用人がいなくなってからは、こうして愚痴を言うのも久々だったので、しょうがない。
この際、食事を終えたマットが困っているのは無視することにする。

「あなた達は、辞めたいと思えばお店を辞められるでしょうけど、私は辞めることさえ許されない」

「じゃあ……どうして、ここから出ていかないの?」

「そんなこと、メロが許さない。あいつは死ぬまで私をここに縛り付けて出さないつもりなんです。……いや、死んでも出さないつもりかもしれない」

ふと、遠い昔に交わした会話が蘇った。
死んだら、出してくれますか?
そう聞いた私に、メロは目を歪めて、口元を歪に持ち上げて、言った。
死んだって、出してやらないさ。

「あのさ、ニア」

「……なんです、」

過去の記憶に益々眉間の皺を多くしていた私は、マットの問いかけにぶっきら棒に応えた。
マットは暫く何事か逡巡して黙っていたが、私がもう一度――少し苛ついた声音で――「何ですか」と尋ねると、言いにくそうに口を開いた。

「あのさ、なんでこんなところに閉じ込められるようになったのか、聞いてもいい?」

その問いに、私は思わず目を丸くして、火鉢に落としていた視線をマットに移動させた。
マットは至って真摯な瞳で私を見つめている。
別に、興味本位や野次馬な気持ちで聞いているわけではないようだった。
けれど、その瞳にそれなりの「同情」の色が見てとれて、私は気に入らない。

それでも、私はうっすらと唇を開いた。
どうせ暇だし、それに、マットの心をぐっと私に引きつけるためには、あの話は恰好のネタだ。
私は畏まった様子で座っているマットを、横目ですっと見つめる。
そうして、この男もまた道具にすぎないのだ、と思う。
メロに復讐するための、道具にすぎない。
今まで利用してきた大勢の使用人たちの顔は、もう覚えていなかった。
いずれ、こいつの顔もその存在さえも忘れ去ってしまうだろう。
けれど今は、何より大切な道具だ。

「いいですよ、教えて差し上げましょう」

そう言うと、拒否されると思っていたのか、マットは自分から聞いてきたくせに目を丸くした。
私は火鉢をつついて瞼を伏せる。
瞼の裏には、7年前の記憶が、まだ鮮やかすぎるほどに残っていた。
当然だろう。
ここに閉じ込められてからの5年間の記憶は、同じことの繰り返しだ。
新しいことなどなく、楽しいことなどなく、哀しいことと悔しいことと憤りしかない。
白と黒の記憶に埋め尽くされたこの部屋での記憶。
ここに縛り付けられる前の記憶は、余計に鮮明に、色鮮やかに見えるのだ。
だから私は、ほとんど呼吸をするのと同じくらい簡単に、思い出すことが出来る。

あの、冬の日の記憶を。


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奉公に出されたのは、10歳になった年の冬だった。
故郷はひどく、貧しかった。
私は大勢いる兄弟たちのちょうど真ん中で、頼られた記憶もなければ可愛がられた記憶もない。
宙ぶらりんな位置で、それなりの愛情を受けて育った。
体は丈夫ではなかったが頭は良かったので、家の農業を手伝わずに奉公に出したほうが良いだろう、と言う話になったのだ。
どうせ奉公に出すなら早い方が覚えも良いし出世できる、ということで、私は10歳で家を出てここに来た。

正直に言うと、私にとって松屋は実家に比べるとうんと素敵な場所だった。
穏やかな旦那様に、優しい番頭さん、気さくでお喋りな女中たち。
手に豆をいくつもこさえながら、固い土を耕すより、色鮮やかな反物に囲まれて仕事をする方が愉しかった。
そりゃ、辛いことや厳しい仕事はあったが、それでも、土いじりより自分に向いていると、幼心に思ったものだ。

松屋には、跡取りの一人息子がいた。
奥方は早くに亡くなっていたが、跡取り息子のメロは母親似のひどく美しい子どもだった。
私が奉公に来た時、彼はまだたったの12歳だったが、その顔は利口そうで、店の者たちからも可愛がられていた。

私はどちらかと言うと体が小さい方だったし、そろばんは得意だったが力仕事は苦手で、お店の同い年くらいの奉公人たちの中では目立つ方ではなかった。
それなのに、何故か、跡取りの一人息子は、私に声をかけてきた。
奉公に来て、まだたったの一か月程度しか経っていなかった頃だったように思う。

「君、名前は?」

廊下で呼びとめられた時は、驚いた。
私みたいな、特に能力を買われているわけでもない奉公人にメロの方から声をかけてくるとは思っていなかったのだ。
私はたじろいで、メロから尋ねられた2,3の質問に言葉を詰まらせながら応えた。
ほんの数分にも満たない立ち話だった。
それで、メロが一体私の何を気に入ったかは知らない。
けれど、メロは最後に言ったのだ。

「良ければ、僕の部屋に遊びに来ない?珍しいものがたくさんあるんだ。君に見せてあげたい」

嬉しかったか嬉しくなかったかと聞かれれば、もちろん嬉しかった。
大店の跡取り息子が、気さくに自分に声をかけてくれた。
大勢いる使用人たちの中から、私を選んでくれた。
そう思うと誇らしかったし、得意な気持ちになったのは、子どもとして当たり前のことだろう。
そういう風にして、私はメロに誘われてしばしばメロの部屋を訪れるようになったのだ。

離れは、その当時はメロの部屋として使われていた。
本をよく読むメロが、母屋よりも静かで良いというので使っていたのだ。
メロは私に、たくさんの書物や町で売っている珍しい玩具なんかを見せてくれて、時々は二人してそこで遊んだりしていた。
旦那様も、メロに友達が出来たことを喜んでいるようで、私にそれまでより目をかけてくれるようになった。
前途は希望で満ち溢れていた。
よもや、2年後にその離れに閉じ込められることになろうとは、考えてもいなかった。


奉公に来て2年目、12歳になった年の冬だった。
私は店の仕事にも慣れてきて、毎日が充実していた。
同い年の子どもたちともその頃には随分打ち解けていたし、そろばんの腕を番頭さんに褒められることが嬉しくて堪らなかった。
そうして、本当に充実した日々を送っていたある日、浮かない顔をしたメロが声をかけてきた。
メロは14歳になっていた。
可愛い坊ちゃんとして皆に可愛がられていたメロは、閑静な顔つきになって背も伸び、若旦那として周りに慕われるようになっていた。
私はそれでもしばしばメロの部屋に行っては、本を見せてもらったりしていた。
そんなメロが、店仕舞いを終えた私に、

「ちょっと、話がある」

と声をかけてきたのだ。
店の片づけは良いから、ちょっと来いよ、と言ってメロは私を離れへ連れて行った。
その様子がいつもと違って、表情は不機嫌そうだし声音は低いし、私は少し不安になった。
自分が何かヘマをして、それを咎められるんじゃないだろうか、と思ったのだ。
しかし、離れにつくとメロは、行燈に火をともして、静かな声で私に言った。
思いもよらない、言葉だった。

「お前に、この離れをやるよ」

「――――えっ?」

私はその頃、他の使用人の子供たちと同じ部屋で雑魚寝をしていて、自分の部屋なんてものは持っていなかった。
女中も他の使用人たちも同じようにしてお屋敷に住んでいたし、それなのに、まだ子どもの私が一部屋――しかも跡取り息子が使っていた離れの部屋――を使うなんて、 常識的に考えてあり得なかった。
メロの言っている意味が分からず目を丸くしていると、メロは切れ長の目で私を睨むように見据えた。
どうしてメロがそんな目をして私を見るのか分からず、私は馬鹿みたいに呆けて座りこんでいた。

「この部屋をお前にやる」

「何言ってるんですか、いりませんよ。私は今の部屋で十分ですし、こんな良い部屋はいただけません」

「折角やるって言ってるのに、いらないって言うのかよ」

「だって……私はまだ子どもですし、奉公に来てたかだか2年ですよ。他の人たちに悪いです」

「他の人間のことなんて、気にかける必要ないさ」

「でも、私は他の使用人の方たちと一緒に仕事をしているので……」

「………仕事、もうしなくていい」

「は?」

私から目を逸らして俯いたメロが、眉根に皺を寄せて呟いた。
行燈の火に、何故か傷ついているように見える表情が照らされている。

「もう、仕事はしなくていい」

「……何の話ですか、」

「この部屋をやるから、ずっとここにいろ」

「メロ……?」

なんだか突然、恐ろしくなった。
歪んだメロの目の色が、狂気に、似ている。
その目に寒気を覚えて後ずさろうとした私の腕を掴んで、メロは私を離れの畳みに突き飛ばした。
畳の上に座りこんでメロを見上げると、メロは静かに私を見下ろしている。

「今日からここが、お前の住処だ。着るものも食事も、存分に与えてやるから、お前はここから出るな」

「メロ?何の話をしているのか、さっぱり分かりません」

「今言った通りの意味だ。いいか、離れから出ることは許さない。逆らったら、容赦しない」

「メロ……、」

驚きと混乱で、二の句が継げなかった。
動揺している私を余所に、メロはそう言い置いてさっさと離れを出ていってしまう。
遠ざかって行く足音を聞きながら、私は今まで散々親しんできたはずの部屋の中で、途方に暮れて座りこんでいた。

その日はしょうがなく、離れで眠った。
しかし、メロが使っていた上等の布団で寝るのは憚られて、柱に凭れて浅い眠りしか得ることはできなかった。
メロは「出るな」と言ったが、さすがに店を休むわけにはいかない。
風邪をひいたわけでもないのに、無断で休んだりしては叱られてしまう。
私は結局、いつもと同じ時間に離れを出て朝餉を食べる座敷へ向かった。
同い年の奉公人の子供たちに「昨日どこに行ってたんだよ?」と口々に尋ねながらも、いつもと変わらない朝を過ごしたのだ。

しかし、朝餉が終わる頃に、バタバタと廊下を走る足音が響いて、血相を変えた様子のメロが座敷に飛び込んできた。
もちろん、彼が私を探していたんだろうということは分かっていたが、私はさほど深刻には考えていなかった。
昨日のことは、メロのほんの戯れだと思っていたのだ。
ところが、メロは座敷の中で食事をしている私を見つけると、見る見るうちに厳しい表情になった。
ずかずかと大股で私の前までやってきて、何も言わずに私の腕を引っ張って立ち上がらせ、引き摺るようにして廊下に連れ出した。
座敷にいた使用人たちが、ポカンとして私たちを見ていた。

「ちょっと、メロ、何するんですか」

「煩い!出るなと言っただろう!」

「出るなって、そんなの無理ですよ。お店にも迷惑が……」

「煩いって言ったのが聞こえなかったのかよっ!」

メロの怒鳴り声に、私は思わずビクリと肩を竦めた。
メロはそのまま私を引っ張って離れまで連れていくと、入り口にも庭に面した大きな窓にも全て雨戸を立てて、閂を外からかけ、私を中に閉じ込めた。
真っ暗な部屋に一人取り残されて、私は茫然としていた。
もしかして、とんでもないことになっているのかもしれない。
そんなことを、今更ながらに思っていた。

夕方になって、食事をもってきたメロに、私は初めて頬を打たれた。
最初は何をされたかよく分からなかった。
鈍い痛みと唇を強く噛み締めたメロの表情を見て初めて、自分が殴られたのだということが分かって愕然とした。
そうして私は、メロに「何故こんなことをするのか」と聞くタイミングを失った。
ただ漠然と、もう外には出られないのだと思った。
メロは、本気だ。
本気で私を、ここに閉じ込めておくつもりなのだ。


離れでの暮らしは、3日で飽きた。
ただ、朝昼晩の3回メロが持ってくる食事を食べて、それ以外は本を読んだり玩具を弄ったり。
南に面した小さな小窓だけが開かれていて、そこから見える区切られた狭い空は余計私を空しくさせた。
逃げないから、庭に面した広い窓を開けてくれ、と頼んでも、メロはなかなか首を縦には振らなかった。
店がどうなっているのか、使用人たちが私のことをどう思っているのか、何も分からない。
私はすっかり外界から切り離されて、独りぼっちになった。

それでも、今に比べればうんとましだったように思う。
食事を運んでくるメロは、自分から私を閉じ込めたくせに申し訳なさそうな、後ろめたさそうな顔をしていたし、私に気を使って珍しいものを、 多い時には日に3つも4つも町から買ってきては私に持ってきていたし。
まだ本格的には店の仕事をしないでよかったメロは、暇な時間はほとんど離れで過ごし、その間は庭に面した窓も開け放ってくれて、部屋の中は存外明るかった。
私も、あまりこの状況を深く考えるのは止そう、と前向きに考えていた。
メロもそのうち飽きて私を外に出してくれるに違いない、と思っていたのだ。
とりあえずは、メロの気が済むまでここにいてやればいい。
一か月か二か月か、長くても半年程度で出られるだろう。
そんな風に、今思えば笑えるくらい楽観的に、自分の状況を捉えていた。

ところが、私の予想に反して、一か月たっても二ヶ月経っても、さらには「長くても」と思っていた半年を過ぎても、私は離れを出ることを許されなかった。
それでも、一年以内には、と思っていた10ヶ月目の秋の入り口の午後。
メロが、新しい着物を持って離れを訪れた。
淡い桜色で、毬が刺繍された、女物の着物だった。

「……なんですか、これは」

「新しい着物、」

開け放した縁側で本を読んでいた私は、差し出された着物に一瞬、かける言葉を失った。
しかし、メロはさも当然とでも言うようにそれを私に差し出して、「今度からはこれを着ろ」と言った。
私はそこで初めて、もしかしてこの人はどこかおかしいのじゃないか、と思った。
男の私にこんなものを持ってくるなんて、どうかしている。

「メロ、ご存じかとは思いますが、私は男です」

「知ってるさ、そんなことは」

メロはさらりとそう言って、さっさと出て行ってしまった。
私は暫く、その着物を箪笥の奥にしまって着ようとしなかった。
女物の着物なんて着たくなかったし、メロの意図を図りかねていたのだ。

しかし、それからさらに月日が流れて、閉じ込められてから1年がたった頃には、私はそれらの着物を着ざるを得なくなった。
寒くなって衣替えが必要になると、メロは箪笥の中の着物を全て女物の高価なものに入れ替えてしまったのだ。
いくら抗議しても、メロは聞く耳さえ持ってくれなかった。
おぞましいことに、抗う私にふっと笑いかけて、

「きっと似合う」

と言ったりするのだ。
着物を着た私の頬にそっと触れて、ひどく優しい目で私を見たり、する。
けれど、その視線がもう昔とは違っていることに、私はちゃんと気付いていた。
気付いていたけど、気付かない振りをしていたのだ。
 



どんなに田舎の貧しい家から売られてきたゴボウのような娘でも、吉原の水で磨けばそれなりの女郎になるという。
それを聞いたとき、本当だろうかと首を傾げたのを覚えている。
人には元々、持って生まれた器量があるだろうに、生活の場を変えただけでそんなに変化するものだろうか。
そんな風に思っていた。
けれど、離れに閉じ込められるようになって、私はそのことがどうやら真実だったようだ、ということを知った。

奉公人として働いていたころは、品物を運んだり掃除をしたり、一日中忙しく動き回って、たんと食事を食べて、それなりに筋肉もついたし、日にも焼けていた。
来たばかりの頃は家が貧しく始終お腹をすかせていたせいで痩せていたが、松屋に来てからは仕事をする分だけ食べて、 周りの子供たちともさほど違いがない程度に成長していた。
それなのに、離れに閉じ込められてからの自分はどうだろう。
ほとんど日に焼かれることのない肌はみるみる白くなり、箸より重いものを持たぬ腕はどんどん細くなった。
仕事をしないから、腹も減らないし、そうなると自然と食は細くなった。
食が細くなれば、成長の度合いも急激に小さくなる。
その上女物の着物まで着ていれば、余計に身体付きが滑らかになっていくような気がした。

離れに閉じ込められて3年が経つ頃には、色々と諦めがつくようになっていた。
私は15になり、メロは17になって、近頃では随分と店の仕事を任されているらしく、一日二度の食事は年かさの女中が運んでくれていた。
私にとってはメロ以外に唯一会える人物だったが、向こうはあまり私と関わりたくなさそうだった。
そりゃあ、そうだろう。
私はこんなところに閉じ込められて、女物の着物を着せられて、これじゃまるで妾のようだ。
男のくせに気味悪いと思っているだろうし、同時に「気の毒に」と思っているのが、私を見る目で分かった。
その目を見るたびに、私はいたたまれなくなる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考えたくなくても考えてしまう。
諦めているはずなのに、時々、彼女に縋って「出してくれ」と懇願してしまいそうになった。

けれど、それでもまだ、その頃はメロのことをそんなに嫌ってはいなかった。
何故こんなことをするのだろう、とは思っていたけれど、相変わらずメロは優しかったし、時々は私の手を引いて一緒に庭先を散歩したりもしていた。
メロのことを堪らなく憎むようになったのは、15の歳の冬のことだ。
年が明けて、その冬初めて雪が降った日だった。

夕食を終えて火鉢をつついていると、いつもよりも随分と早い時間にメロがやってきた。
大抵は眠る一時間か二時間ほど前にやってきて、花札をしたり静かに本を読んだりした後自分の部屋に帰って行くのだが――メロの部屋は母屋に移っていた―― その日はまだ夜も早い時間にやってきて、どこか気もそぞろな感じがした。

「今日は早いんですね。どうかしましたか?」

火鉢をメロに寄せながら尋ねると、メロは私の問いには答えず、「あぁ、」とよく分からない生返事を返してきた。
私がメロの様子に首を傾げていると、メロは私から火箸を受け取って、さっさと炭を灰の中に埋め込んで火を消してしまった。

「どうして消すんです?」

「もう寝る」

「まだ早すぎませんか」

メロはそれには答えず、私に、奥の寝床に行くように、と言う。
もう眠るのだろうか、と私は不思議に思ったが、メロはきっと疲れているから早く眠りたいんだろうと勝手に解釈して立ち上がった。
メロは、次の日お店が休みだったり、母屋に帰るのが面倒だったりすると、時々離れで眠ることもあった。
今日はこっちで寝るつもりなんだろうと思って奥の襖を開けると、冬の冷たい空気が素肌を撫で、私は身震いする。
寝床には、女中がお膳を片づけに来た時に一緒に敷いて行った布団が一組敷かれている。
押し入れからもう一組出さないといけませんね、と言おうとして振り返った瞬間に、背後にいたメロに背を押された。
そんなに力いっぱい、というわけではなかったけれど、私はバランスを崩して布団の上に倒れ込んでしまった。

「痛……、何するんですか」

悪戯だろう、と思って特に慌てもしなかったし腹を立てたりもしなかった。
ただ、少しぶつけた頭を軽く擦りながら口を尖らせただけだった。
しかし、その唇に何か柔らかいものが押し当てられて、私は目を丸く見開いた。

「え……っ」

目前にメロの伏せた睫毛が迫っている。
驚いて頭を逸らそうとしたが、後ろ髪を掴んで引き寄せられているので、逃れることが出来ない。
混乱しているうちに熱い舌が開いていた歯の間から侵入してきて、私の舌を掬った。

「な…っ、メロ?」

唇が僅か離れた隙にメロの両頬を掴んで引き離すと、メロの蒼い瞳が静かに私を見下ろしていた。
身体にはメロの重みがしっかりと圧し掛かっている。
背中に着物越しの冷たい布団の感触。
私を見下ろすメロの瞳と、ひんやりと身体を包む冬の空気に、先ほどまで火鉢の熱で暖まっていた身体がすっと冷えていくのが分かった。
それは、得体の知れない恐怖に似ていた。

「メロ、何をしてるんですか。眠るなら、もうひとつ布団を、」

「必要ない」

「え?」

「ひとつで、十分だ」

そう言った途端、メロの両手が袷を掴んで裂いた。
ひやりと冷たい外気が素肌を這って、私は慌ててメロの手を掴む。
何をされるのか、どういう状況なのか、理解は全く出来ていなかった。
私をからかっているのか、ほんの戯れなのか、メロが何を考えているかさえ分からない。
動揺している私を余所に、メロは冷たい指先をつっと私の胸に滑らせる。

「………えっ」

肌蹴た胸元に、温く湿った感触。
驚いて身体を起こそうとしたが、メロの手に肩を掴まれ、布団に押し付けられているせいで首を持ち上げることしかできない。
そうして自分の身体を這うメロの舌を見て、私は目を見開いた。
メロの舌が、鎖骨を食んで胸を下り、薄い中心を口に含む。
強く突起を吸われて、私は思わず強く唇を噛むと、メロの肩を掴んだ。

「メロ、ふざけた真似は止してください、」

そう言って身体を引き離そうとしても、メロの身体は私の上に圧し掛かって離れない。
メロが何も言葉を返してこないことが、余計私の不安を煽った。
隣から漏れる行燈の薄暗い明りがメロの頬を照らしている。
けれど、長い前髪で隠れた表情は窺い知れなかった。
冷たい冬の夜の闇のような、何か恐ろしく暗く大きなものに覆い被さられているようで、私の身体は硬くなる。

「い、嫌……、メロ、放してっ」

ほとんど悲鳴に近かった。
肩を掴んだ手にぐっと力を入れて足をばたつかせると、メロがちっと短く舌打ちする音。
その不機嫌を露骨に表わした音に、私はビクリと肩を震わせた。

「煩ぇな、黙ってろ」

閉じ込められた時に聞いたのと同じような、低く重い声音。
メロの切れ長の目が、拒絶を許さない強い視線で私を睨みつけていた。

メロは、私の細帯に手をかけると、それをするすると解く。
胸から足までの素肌に冬の冷たい夜気が触れたが、何故かそれほど寒くなかった。
メロに触れられていたところが、妙に熱いせいかもしれない。

私はメロの視線に捕らわれて、身動き一つすることすらままならなかった。
メロの手は腹の上を這って、横たわった私の中心に手を伸ばす。
温い温度が纏わりつく。
緩くそこを絞められた瞬間、私はハッと我に返ってその手を振り払った。
驚いた様子のメロから一瞬力が抜け、私は慌ててメロの下から逃れようとする。
けれど、それはメロの手で容易に阻まれた。
それでも、私はなんとかメロから逃げようと覆いかぶさる黒い闇に抵抗した。

「止めてっ、放してください!」

手足をがむしゃらに動かして暴れる。
私を見下ろしたメロは不機嫌そうな顔をしていたが、私が益々暴れると、私の腰のあたりにまだ緩く巻きついていた細帯を取って、 それから私の身体をぐるりと反転させた。
私はうつ伏せに布団に押さえつけられて、首を持ち上げ、顔だけメロに振り返る。
メロは手に取った細帯で私の腕をきつく縛りあげる。
食い込むほどの刺激に、私は表情を歪めた。

「な、何を…」

「暴れられるとやりにくいからな。少し、大人しくしていろ」

「あ……っ、」

メロの唇が項に口付けを落とす。 ドク、と胸の奥が僅かに波立った。
メロは右手で私の胸に触れると、左手で後ろから包み込むように私の体の一番弱いところを握りこむ。
私はぎゅっと目を閉じて額を布団に押し当てた。
擦られる感触に、少しずつ熱が高まっていくのが分かる。
腰のあたりがむず痒くなって、気付けば私は布団から腰を浮かせていた。
浅ましい、と思うけれど、せり上がってくる欲情が理性を消し去ってしまう。

「んっ、メロ……やぁ……っ」

「気持ちよくなってきたか、ニア?」

「そんな……あ、」

そんなことはない、さっさと放して。
そう言いたかったのに、半分も言葉にならない。
指の腹と掌で強く擦られて、私はメロの手の中で達してしまった。
自分一人でもこんなこと、したことなんかなかったのに、自分の汚い部分をメロに見られてしまったような気がして、私は惨めで堪らなかった。

「ニア、」

「ぅん……」

顎を捉えられて、唇が合わさる。
メロの息も少し上がっていて、先ほどよりも下に絡みつく唾液が粘度を濃くしていた。
夏の雨のような執拗でベタベタとしたキスを交わした後、メロの体温が背中から遠ざかった。
ぼんやりとした視界でメロを見上げると、彼が隣の部屋へ出て行く背中が目に入る。
終わったのか、と思ったが、ホッとすることなど出来なかった。
メロに触られたことへの憤りと、その手で達してしまったことへの羞恥が胸の中でまざまざと渦を巻いて、私は舌を噛んで死んでしまいたいくらいだった。

ところが、流れそうになる涙を必死で堪えていると、ふっと息を吐きだす気配が隣の部屋から聞こえて、部屋の中が闇に包まれた。
隣の部屋でつけっぱなしになっていた行燈をメロが吹き消したのだろう。
そして、暫くするとすぐ脇で衣擦れの音がして、火石を打つ音。
ぼうっと枕元の燭台に火が灯ると、メロがすぐかたわきに膝をついていた。
その横には、小さな箱だか壺だかよく分からないものが置いてある。
嫌な予感がした。
メロは、母屋の部屋に戻って眠るつもりではないのか。

「メロ……、腕、解いて下さい」

「あ?まだだ。暴れられたら面倒だって、さっき言ったのをもう忘れたのか」

それを聞いて、私はまだ終わっていないのだと分かって身を硬くした。
けれど、これ以上一体何をしようと言うのだ。
そう思っている私の背中にメロの肌の感触が戻ってくる。
右頬を布団の上に押し付けてメロを見上げても、彼が何をしているのかを視界にとらえることはできなかった。
だが、ことり、と音がして畳の上にあの小さな壺だか何だかが置かれたのは見えた。
蝋燭の拙い明りに照らされて、中に何か半透明なものが入っているのが目に入る。
なんだろう、と思ったのと同時に、身体の奥、私だって触れたことのない様な所に、メロの指先がつっと埋め込まれた。

「は……っ?えっ、な、何、」

私は力を入れて首を起き上がらせると、背後を省みようとした。
けれどメロが何をしているかは相変わらず見えないし、力を入れたことによってメロの指先が宛がわれた箇所がぎゅっと痛んだ。
それでも、メロは怯むことなく指を進める。
何か、ねっとりとした生温かいものが、メロの指先と私の後孔に纏わりついている。

「やっ、メロ、何して……ぅあっ」

ぐっと、メロの指が奥の方まで入ってきて、そこを押し拡げるかのようにくるくると輪を描く。
私は身体に力を入れて、その熱を煽る感覚を堪えなければならなかった。

「吉原でよく使われてる妙薬だ。布海苔に色々混ぜ込んで作る。何人も客の相手をしてると濡れなくなるから、こうして滑りをよくするんだってさ。お前は男だし、 さすがに何もなしじゃ痛くて仕様がないだろうと思ったから、用意しておいたんだ」

「メロ……?何の話か、よく分からない」

「そう、そのうち分かるよ」

メロは耳元で囁く。
ぺろりと耳を撫でて、私の中に深く入ってくる指先と同じように耳の中を舌で弄る。
くちゃくちゃと聞こえる粘膜が擦れる音は、メロの舌がたてているのか、指先から聞こえているのか分らなかった。
ただ、その音が聴覚まで犯していく。
歯を食いしばって目を強く瞑ると、溜まっていた涙が零れた。
上等の布団に、濃い染みを刻んでいく。

メロは随分と時間をかけて私の中を解いていった。
指を増やしながら、時々強く内側を撫でて、私が声を漏らすと、耳元で笑う気配がする。
羞恥でおかしくなりそうだった。
身体をねじ伏せられて、腕を縛られて、その上本来ならば触れられるところではない場所を侵されて、それなのに、身体は熱くなる一方だ。
再び硬度を持ち始めた私のものが、緩く布団に当たっているのが分かる。
メロにだけは気付かれたくなかった。
こんなことをされて感じているなんて、自分でも信じられないし、信じたくない。
こんな浅ましい姿は、見られたくない。

それなのに、メロは暫くすると私の内側から指を引き抜いて、私の肩を掴むと再び身体を反転させた。
私は正面からメロと向き合う形になる。
着物はもう身につけていないも同然で、肌が露出していないところなどほとんどなかった。
メロの方も、着物の帯が緩んで首筋から腹のあたりまでが見えていた。

「いい加減にしてください、」

下唇に歯を立てて、私は精一杯メロを睨む。
けれど、涙でかすんだ視界では上手くメロの姿を捉えることさえできなかった。
メロはすっと胸に触れて、身体を折り曲げると胸の突起に口付ける。
さっきは少しくすぐったい程度だったのに、触れられただけで声が漏れる。
嫌になるくらい、身体が敏感になっていた。
胸を舐めながら、右手は脹脛のあたりを撫で、膝の裏側を掴んで持ち上げる。
左手も同じようにされて、見上げた天井の隅に自分の生白い脚が見えた。
顔を、上げないでくれ、と思った。
そんな風にされたら、私が感じているのが、分かってしまう。
嫌で嫌で堪らないのに、言い逃れなんか出来なくなってしまう。

「嫌だ……、見ないで…っ」

胸のあたりに被さっていたメロの細い髪が離れて、メロが顔を上げるのが分かった。
そうして、顔を上げたメロの視線がゆっくり私を捉える。
その視線にさらされて、私は舌に強く歯を立てた。
もう嫌だ。
これ以上の凌辱は、耐えられない。

だが、舌に歯を食い込ませようと力を入れた瞬間に、メロに顎を捉えられて再び唇を奪われた。
私は小さく呻き声を漏らしながら、メロの舌に噛みつく。
けれど、メロは放そうとしない。
顎から後頭部へ右手を移動させ、左手はぐいと足を押し拡げる。
そして、喉の奥まで届くほど深く口付けられたのと同時に、メロの熱く硬いものが、私の中に入ってきた。

私は目を見開いて、背を浮かす。
痛みと圧迫感、それからどうしようもないほどの恐怖感。
けれどそれは、侵されていることへの恐怖ではなかった。
後戻りできない、空恐ろしい気持ち。
自分が自分でなくなっていくような、喪失感。

「嫌ッ!嫌だ、ああぁっ」

強く噛んだ、メロの唇が切れた。
口の中に血の味、しかしそれよりも濃い血の匂いがした。
切れて流れた鮮血が、メロを侵しているのが分かる。
纏わりついて混ざり合う粘膜の感触に寒気と同時に熱が高まる。
どうしようもない感覚だった。
とてつもない後悔と空しさと、言い表わしようのない、欲情。

メロは、こんなことがしたかったのか。
こんなことをするために、私をずっとここに閉じ込めておいたのか。
首筋にメロの熱い吐息がかかる。
メロは足を高く持ち上げて、私の身体を揺さぶるほどに腰を打ちつけた。
深く貫かれるたびに、私は悲鳴なのか嬌声なのか分からない声を上げた。
自分でも、どちらなのか分らなかった。

「ニア、……っ」

流れた汗が頬にぱたぱた落ちる。
零れた涙と合わさって、一緒に頬を滑った。
メロは縛っていた私の腕を解くと、その手に自らの指を絡める。
包まれた私の手は頼りないほど小さくて、強く握りしめられる感触は、一つになった今の感触とひどくよく似ていた。
私はその手を握り返して、メロを見上げる。
私の目は、憎しみと哀しさが、入り混じった色だっただろう。
メロはそれを見ると、酷く切なそうに眉根を寄せて、一層強く私を貫いた。

「ぅあ……っ!」

二度目の快楽が私を襲う。
精を吐きだしたのと同時に、私の中にそれと同じ熱いものが諾々と注がれた。
身体を崩したメロの、忙しない心臓の音が私の胸に合わさる。
天井を見上げてメロの重みを身体に感じながら、私はただ茫然としてた。
全部、失われてしまったのだと思っていた。
メロとのこれまでの記憶は、このほんの一時の行為によって全て失われてしまった。
私はメロを恨むだろうし、例えこれまでと同じように優しくされたって、もうメロを信じることは一生ないだろう。
そう思うと、哀しかった。
恨んでいるのか憎んでいるのか、分からない。
ただ、私の肩を抱き寄せるようにして突っ伏しているメロの震える肩を、見ていたら。
もしかして、この人も泣いているのかもしれない、と思った。

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「次の日の朝は、最悪でしたよ」

目の前のマットは、かける言葉を完全に失っていた。
これで相手が女なら、ほとんど十割方「酷い」と漏らして啜り泣く。
同情されるのは好きではないが、そうやって涙を流す女の肩をそっと抱いて引き寄せれば、大抵の女は落ちた。
私は決まって、「私のためにないくれるなんて、貴女は優しいんですね」と微笑む。
指先で涙を拭って唇を寄せても、抗う女中は一人もいなかった。

けれど、マットにそうするわけにもいかなかった。
男の時は攻め方がちょっと違うのだ。
あくまで気丈に振舞って、最後に涙を流すのが一番手っ取り早い方法なのだけど。
果たして、目の前で呆けている男に効くかどうか。
そんなことを諾々と考えながら、私は火箸で炭をつついて話の続きを口にする。

「起きたらメロがちょうど着物を着ているところで、夢ならどんなにいいかと思ったんですけど、身体はあちこち痛いし布団は結局一組しか敷いていない。 あぁ、昨日の悪夢は現実だったのか、と思うと地獄にでも突き落とされたような気分でしたよ」

目が覚めたとき、メロはちょうど帯をしめているところで、私が起きたのに気づくと肩越しに私を振り返った。
その表情は、読み取れなかった。
謝るか哀しそうな顔をするかだと思っていたのに、まるで無表情で私を見つめて、ただ「起きたか」と聞いただけ。

「私は結局、メロが部屋を出ていくまで一言も言葉を発せませんでした。メロが出ていってからは、急に恐ろしくなってしまって。 布団の上に転がっていることすら忌々しかった。この上で汚されたんだと思ったら、もう嫌で嫌で。それで、毛布を身体に巻きつけて部屋の隅に蹲って震えてたんです」

抜け出した布団の上には赤い花が無数に散っていた。
太腿のあたりも乾いた血がこびり付いていて、脛のところも点々と赤くなっている。
それを見るだけで昨夜の記憶が蘇った。

「そうして震えていたら、食事の時間になって……いつもの女中さんが朝餉を持ってきてくれたんですけど、奥の部屋で蹲っている私を見つけた途端お膳をひっくり返し ちゃったんです。それで、一体どうしたのって駆けよってきて……。それでも私は口を聞けませんでした。ただ、毛布に顔を埋めていた。 そのうち女中さんは乾いた血のこびり付いた布団を見て真っ青になりました。私は恥ずかしいやら悔しいやらで」

ちらりと火鉢からマットに視線を上げる。
マットは眉間に皺を寄せて、じっと私の話を聞いている。
膝の上におかれた手は、ぎゅっと握りしめられていた。

「それからは、もう大騒ぎでしたよ。私は直接外で見たわけじゃありませんけど。女中が旦那様に告げ口したんです。そりゃ、私が泣きながら「ここから出して」って 言ったのもきいていたんでしょうけど。まぁ、大抵の人間ならこんなのは宜しくないと思いますよね」

ずっと躊躇っていたのに、その朝、私は女中の袖に縋って「ここから出して」と声を上げた。
去り際、メロが「また今晩来る」と言った台詞が耳に張り付いて、恐ろしくて堪らなかった。
また、今晩も昨日のようなことをされたら。
触れられて侵されて、羞恥を煽る、あんな行為をこれからずっと続けていかなければいけないんだとしたら。
耐えられない、もうこんなところに閉じ込められているのは嫌だ。

「夕刻その女中が来て、薬を置いて行ってくれました。私は夜になってもまだ身体が痛くって。それから、彼女は「今晩は若旦那様はお出かけだから」とも言ったんです。 だから、ゆっくりお休みなさいという意味だったんでしょう。本当に、その晩はメロは来ませんでした。ただ、夜になると前の晩のことが思い出されて、 ちっともぐっすり眠れませんでしたけど」

メロは明け方になってやってきた。
浅い眠りから引きずり出された私は、入ってきたメロに早々組み敷かれて唇を合わせられた。
ぷんと、妙に甘ったるい香のような香りがした。

「嫌な、匂い」

意図せず零れた言葉を聞いて、メロは少し目を丸くすると自分の着物に鼻を近づけた。
それから、ふっと笑う。
何が面白いのかちっともわからなかった。

「湯を浴びて着物も着替えてきたんだけど。女の匂いっていうのはしつこいもんだな」

前の晩、メロがどこに行っていたのかは知らない。
ともかく、私は朝方からメロに組み敷かれそうになって、必死で抗った。
「切れた箇所が、痛い」そう言うとメロは漸く掴んでいた手を放したが、それだけでは終わらなかった。
帯を解かれて、「消毒、」と称されて舌で散々愛撫されたことは、マットには話さなくて良いだろう。

「それからしばらくして、メロが旦那様を刺したという話を聞きました。私のことに口出しはするなと言ったとか、なんとか。とにかくそのことでお屋敷は酷い騒ぎに なったそうです。聞いた話だから、詳しくは知りませんけど。でも、メロはその頃はもう店にはなくてはならない存在になっていたそうで、ずっと低迷してたお店の売上も 伸び出していたし、メロを勘当するわけにもいかず……結局皆、私のことに目を瞑ってしまったんです」

今考えても忌々しい。
皆、自分の見の保身のために私のことに目を瞑ったのだ。
私一人が我慢すれば、全てが上手くいく。
我慢するのが自分でないことを良いことに、奴らは私を売ったのだ。

だから、復讐することを決めた。
メロにも、そして他の使用人たちにも。

「その後は、あなたの想像通りだと思いますよ。私は毎晩毎晩、この離れでメロとセックスするんです。不純極まりないですね」

「酷い……」

黙り込んでいたマットが、漸く口を開いた。
酷い、か。
男も9割方はこの台詞だ。
この男も、ありきたりだな。

「酷いですよ。だから私はメロを恨んでるんです」

「違うよ」

「はい?」

マットが怒りを抑えきれないような低い声で言ったので、私は驚いて火鉢から顔を上げた。
マットは何故か、泣くのをこらえた子どものような顔。
私は目を丸くした。

「酷いのは、メロだけじゃない。ここの奴らだって相当酷い。自分の安全のために、ニアを売ったようなもんじゃないか」

私はますます目を見開く。
そんな風に言ったのは、マットが初めてだった。
ほとんどの奴らは私に同情することしか知らないのに。

「なんで、そんなことを?」

信じられない気持だった。
どうして、分かってくれたんだろう、と思った。
どうして、私の気持ちを分かってくれたんだろう。
しかし、マットはその問いには応えず、ただ、眉根を下げて私を見た。

私は、最後に涙を流してマットを落とすといういつもの計画をすっかり忘れてしまって、零すようにぽろりと、笑ってしまった。
そんな私を、不思議な顔でマットが見ている。

「ちょ、なんで笑うの?」

「だって、そんな風に言ってくれたのはマットが初めてだったから、」

誘惑や嘲笑以外で、笑ったのは久しぶりな気がする。
私が笑っている理由が分かっていないらしいマットの、間抜けな顔も余計私の笑みを増殖させた。
この話をすると、ほとんどの人間は同情しか寄越さない。
けれどマットは、私をここに閉じ込めているのはメロだけでなくもっと大勢の人間なのだということを分かってくれたような気がした。
だから、

「少し、嬉しいだけです」

そう言って、微笑んだままマットの頬に手を当てる。
マットは最初目を丸くして私を見つめていたが、その後つられるようふっと笑った。
その眼は、笑っているのに。
何故だかとても、哀しそうに見えた。

マットの表情は、彼の目に映りこんだ私の表情と、とても似ているような気がする。


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