紅梅の雪」3







ニアは、俺の前だと笑わない。
当然のことだろうと思う。
誰だって、嫌っている奴の前でわざわざ笑ってやったりしないだろう。
けれど、俺にはそのことがどうしようもなく気に入らない。
「笑う」という、俺に対するニアの行動を、あいつの中から奪ったのが例え俺なのだとしても。
俺に与えられないその表情が、他人に無防備に晒されているというのは、どうして我慢できない。

離れの戸を開けた瞬間に、中からニアの笑う声がした。
その声を聞いただけで、俺の襖の取っ手にかけた指先が冷たくなる。
ここを開けて中に入れば、ニアの笑みは一瞬のうちに奪い去られて、冷たい能面のような無表情が俺を迎えるだろう。
そう分かっていても、俺は離れの中のニアをそっとしておいて、そこを離れるなんてことはできなかった。
どうしようもない欲だと思う。
ニアを、奪われたくない。
本当は、姿さえ誰にも見せたくない。
ここに閉じ込めて、俺だけのものにしてしまえれば。
そんなことを本気で考えてしまう俺は、どうしようもなく、救われないほどに馬鹿なのだろう。

「随分と楽しそうだな」

勢いよく襖を開ければ、まだ口元に淡い笑みを残していたニアがこちらを向いた。
その顔は、予想通り次の瞬間には冷たい無表情に変わる。
ニアの向かいに座っていた使用人は、締まりのない笑顔を俺に向けてから、「それじゃ、俺はこれで、」と言うとそそくさと空の食器の乗っていた膳を持って 出ていってしまった。
その背中を睨むように見送りながら、俺はニアに声をかける。

「折角の愉しい時間を邪魔したか?」

「別に。昼間に来るなんて珍しいですね。お店は?」

「お前はいちいち店のことばかり気にする」

俺がそう言うと、ニアはぎろりと俺を睨んでから、「じゃあもう聞きません」と視線を逸らした。
店のことが気になるのは、5年前まで働いていた時のことが忘れられないからなのだろう。
あの頃、確かにこいつの日常は充実していたんだと思う。
それが気に入らなくて、奪って閉じ込めたのは俺だ。
まるでその頃の自分を羨んでいるような眼をして火鉢を見下ろしているニアを見つめていたら、胸の奥が黒く、ざわめく。
火箸を握っているニアの手を掴むと、俺はその赤く熟れた唇にキスをした。
おおよそ、男とは思えないほど長い睫毛が僅かに細まって、俺の頬に当たる。
白粉をつけているわけでもないのに、仄かに甘い香りがした。

「昼間っから盛ってるんですか」

「お前が悪い」

俺は火鉢の横に腰をおろし、ニアを膝の上に抱き上げるとその細い腰に腕をまわして引き寄せ、もう一度唇を合わせる。
あの頃のように、ニアは逃げない。
むしろ吸いつくように自分から絡みついて、時々挑発的に俺の舌に歯を立てる。
うっすら目を開けると、同じように少しだけ目を開いていたニアの視線と絡まる。
目が合うと、ニアは誘惑的な視線を向けてきた。
けれどそれは、別にこの2年で俺のことが好きになったからではない。
増える憎しみを拭うために、笑うのだ。
俺はきつく瞳を閉じてから、ニアの身体に手を伸ばした。


***

昔から、大抵のものは持っていた。
お金もおいしい食べ物も優しい親――片親だったが、使用人たちがいたのでさほど寂しくもなかった――も暖かい寝床も。
自分が恵まれている、というのはよく分かっていたし、だからこそ自分の境遇について文句を言うなんて決してしてはならないと思っていた。
けれど、一つだけ俺には持っていないものがあった。
大店のたった一人の跡取り息子として育った俺に、一つだけないもの。
それは、友達。
同じ年ごろの使用人はいたが、使用人と店の跡取りじゃとても仲良くなんかなれない。
周りの店にも子どもはいたが、この界隈で一番大きな呉服屋の息子と釣り合いのとれるような店はなく、必然的に友達が出来なかった。
ドタバタと廊下を走りながら笑いあっている子どもの使用人たちを見ていると、時々堪らなく羨ましくなる。
その笑顔の中に入ることが出来れば、といつも思っていた。
だが、店の跡取りとして、育てられた俺はそんなことは出来なかった。

そんな俺がニアに魅かれたのは、最初は純粋に友達になりたかったからだ。
ニアは最初から特別な奴だった。
入ってすぐから頭がいいというので父親も一目置いていたし、何より美しかった。
貧しい家の出だというが、品のある顔に雪のように白い肌。
綺麗な着物を着せてそれなりに良いものを身につけさせれば、大名屋敷にいても見劣りしないだろう、と思った。
こいつならば、許されるかもしれない。
頭もよく美しいこの子どもならば、父親も店の者も仲良くなることを許してくれるかもしれない。
そう思って近づいたのが、最初だった。

「君、名前は?」

そう言って声をかけた時のニアの驚いた顔と、それからすぐに綻んだ口元を、俺は今でも鮮明すぎるほど鮮やかに、覚えている。

ニアはすぐに打ち解けてくれた。
珍しい玩具を見せると嬉しそうに笑ったし、新しく買った書物を見せてやると、「ありがとう」と言ってますます信頼してくれるようになった。
ところが、そうやってニアと仲良くなるにつれて、俺はおかしくなってしまった。
ニアの手や、頬や、首筋や。
そういったいちいちが、気になって仕方ない。
細く白い指先に袖を引かれたりすると、頬がちかっと熱くなることがあった。
こんなのは、どうかしている。
そう思うのに、身体の奥の方に燻る熱は、一向に消えてはくれなかった。

最初、ニアは無口で表情の読み取り辛いところがあったせいか、明らかに他の使用人たちの中で浮いていた。
掃除をしたり荷を運んだりするのも大抵一人だったし、食事の時も黙って黙々と箸を動かしていた。
だから、俺が声をかけた時余計に嬉しかったんだろうし、その後も俺に懐いてくれたんだろう。
だが、月日が経てば使用人たちの間にある壁なんてものは早々に失われる。
半年が経つ頃にはニアはすっかり周りに使用人たちと打ち解けたし、一年も過ぎれば俺よりも仲良くなった。
そりゃ、いつも一緒にいて一緒に働いているのだから当然と言えば当然だ。
だが、俺にはそれがどうしても許せなかった。
俺にとって一番の人間であるニアの、一番になれないことがどうしようもなく、苦しかった。

あいつをどこか、誰も来ないようなところに閉じ込めて、俺だけのものにしておければ。
そんな考えが異常であることは分かっていた。
けれど、本気でそれを願った。
そして罰が悪いことに、やろうと思えば俺はそれを実行することが出来た。
大抵の人間は、例えそんなことを思ったって実行したりしないだろう。
誰か一人の人間を何処かに閉じ込めておくなんて、現実的に言って無理な話しだ。
だが、俺はそれが出来る立場にいたのだ。
俺は大店の主として、奉公人のニアを閉じ込めておくことが出来た。
だから、閉じ込めてしまった。
二人で多くの時間を過ごした、あの離れに。

「なんでこんなことをするんですか」

ニアは最初、そう尋ねてひどく戸惑った表情をした。
俺はそれに答えることが出来なかった。
お前を俺だけのものにしておきたいから、なんて言えるわけもなく。
ただ、口を噤んで真意を見せないままに、ただただニアを縛りつけたのだ。

予想に反して、ニアはあまり抵抗しなかった。
最初こそ嫌がって出ようとしたが、雨戸に閂を通して外界から隔離すると、案外すぐに「もう逃げないから窓を開けてください」と言いだした。
さすがに俺がいない間に窓を開けっ放しにしておくのは抵抗があったが、半年が過ぎるころには雨戸に閂をかけることはやめた。
ニアは、春から夏は縁側に座ってぼんやりと庭を見ていたり本を読んだりして過ごし、秋と冬は火鉢を抱いて、やはり本を読んでいた。
俺はそうやって、大人しく閉じ込められたニアに後ろめたさが沸いて、日に何度も離れを訪れては時間を過ごした。
嫌われるのが、恐かったのだ。

俺は、そこで満足すべきだった。
ニアを閉じ込めて、隔離して、自分だけのものに出来たんだから、そこで十分満足すべきだったのだ。
それなのに、そうやって閉じ込めてみれば、俺はもっともっとニアが欲しくなった。
ここが終点ではないと考えるようになっていた。
もっと、先がある。
もっとニアを俺のものにする術が、あるのだ。

けれど、それが決して許されないことであるというのもちゃんと分かっていた。
ニアの体を組み敷いて、女のように抱くことは許されない。
ニアは男だ。
でも、ニアが欲しい。
例え男でも、構わないくらいに。

離れを訪れると、時々どうしようもなく、ニアに酷いことをしてしまいそうになった。
無防備に昼寝をしている姿や、新しい書物を喜んで受け取る指先に、唇を寄せてしまいそうになる。
寸での所で思いとどまっても、その欲情は日増しに強くなるばかりだ。

だから、俺は決めた。
ニアが15になって、初めて雪の降った日に。
ニアを抱こう。

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「おい、大丈夫かよ」

汗ばんで額に張り付いた髪をかき上げると、ニアはほうっと息を吐きだして上目遣いに俺を見上げた。
上がった息が鎖骨の辺りにかかる。
ぴたりと素肌に寄り添った白が、柔らかく心地いい。
しかし、ニアは無言のまま俺から体を放すと、小さく息を吐きだしながら膝で身体を浮かして俺のものを引き抜いた。
ぱたぱたと零れた白濁が腿を汚す。
ニアは表情のない顔でそれを見下ろしながら、

「お湯を浴びたい」

と小さく呟いた。
俺は汗で湿ったニアの頬を包んで、なるべく慈しむようなキスをした。
あの冬の夜からもう、何度こうしてキスを繰り返しただろう。
ニアの中に、少しくらいは俺を想う気持ちが芽生えてくれているんだろうか。

「……馬鹿か」

「メロ?」

自嘲的な笑みとともに零れた言葉を言葉を打ち消すように、俺はニアを放して言った。

「先に浴びてこいよ。風邪をひかないようにな、」

ニアは大人しく頷き、帯を締め直して羽織を羽織ると静かに出ていった。
遠ざかっていく小さな足音を聞きながら、俺は縁側へ続く障子を開く。
外はしんしんと雪が降っていた。
あの日、この離れから見たのと同じ景色が広がっている。
俺はなんだか、途方もない気持ちになった。
一体あとどのくらい、俺はこんなことを繰り返すのだろうか。
ニアに恨まれながら、あいつを抱くんだろう。


***

その冬の雪は遅かった。
年が明けて漸く空から舞い降りてきた結晶を眺めながら、俺は期待と同時に憂鬱と、すでに後悔を感じていた。
それでも、離れを訪れてニアと会えば不安も躊躇いもすぐにどこかに消えてしまった。
やっとニアを、本当の意味で手に入れることが出来るのだ、と思ったら。
俺はほとんど無我夢中でニアを抱いていた。
頬を下る涙さえ愛しかったし、悲鳴様な声で「止めて」という姿さえ熱を高めた。
どんなに抵抗されても、無駄だった。
全ての所作が、俺を後戻りできないほど深いところへ突き落していく。

悪いのは、俺だけじゃない。

ニアの身体に深く身体を鎮めながら、最低にも、俺はそんなことを考えていた。

ニアとセックスすることが、問題になるだろうとは思っていた。
それも覚悟でニアを抱いたのだが、俺はその翌日には父親に呼び出された。
おおかた、ニアの世話を任せている女中が告げ口したんだろう、勘当でもされるだろうか、と思って訪れてみると、父親は意外にも穏やかな様子で、 今日の夜は出かけるから支度をしておきなさい、と言った。
てっきり声を荒げて怒鳴られると思っていた俺は少々拍子抜けしたが、黙って頭を下げた。

そうして連れて行かれた先は、花の遊郭、吉原だった。
どこに行くんだろう、と思いながら父親の後を大人しくくっついて行っていた俺は、夜の闇に光を漏らす玉菊提灯と、煌々と浮かび上がる大門を見て、 なるほどそういうことか、と思った。
おそらく父親が、自分の息子は男が好きなのでは、とでも心配したんだろう。
だから、廓に連れてきて女を教えてやろう、とでもいう寸法なんじゃないか。
早くに妻――俺の母親でもあるのだが――を失くした父親は、どうやら随分この色座とで遊んでいるらしく、慣れた様子で引手茶屋へ向かい、 暫く女将と何やら話しこんでいた。
御子息がどうのこうのと聞こえていたので、俺を話しの話題に盛り上がっていたらしい。

俺は二階の引付部屋に通されて、暫く待たされた後に現れた遊女と「引付の盃」とやらを交わした。
これで疑似夫婦の関係が結ばれるらしく、吉原で他の女と馴染みになるのは禁止される。
俺の敵娼になった女は、他の女郎と同じように首筋まで真っ白に白粉をはたき、始終潤んだ目で俺を見上げてきた。
ぼんやりと薄暗い部屋でそれを見下ろしながら、俺はニアのことを考えていた。

普通、吉原では「初会」で顔合わせ、「裏」を返して、三度目の登楼で「馴染み」となり枕を交わす。
ところが、どういうわけか俺はその日酒宴を終えた後、あっさりとその女と一緒に布団に入る羽目になった。
引手茶屋で内儀が「役者並みの色男だから、きっと花魁が袖を引いて放しますまい」と言っていたことを思い出した。
興味もないのに高い金を払って女を抱く奴の気が知れない、と思っていた俺は、本当はもう二度とここへ来ないつもりだった。
そういう面では、敵娼が俺を寝床へ連れて行ったのは正解かもしれない。
ただ、例え身体を繋げたところで、「もう二度とここへは来ない」と思った俺の考えを打ち消すことにはならなかったが。

こんなことは、所詮無益なことなのだ。
俺は別に、女が嫌いで、男が好きなわけではない。
ただ、ニアが好きなだけだ。
だから、廓なんかに連れてきて、上等の女を抱いたところで何になるというんだろう。
女の白く弾力のある肌に顔を埋めながら、俺はニアの透き通った首筋や、細い腰、零れた嬌声なんかのことを、ただ諾々と考えていた。


明七ツに茶屋から迎えに来た若い者について座敷を出た。
引手茶屋で父親が揚代と酒宴代、それから花代をまとめて支払うのを静かに待った。
浅草田町界隈の風呂屋に寄って帰る道中ずっと、俺は黙り込んでいた。
帰れば父親が「女の方が、ずっと良いだろう。ニアを離れから出せ」というのは分かり切っていたからだ。
里の女はいいものだろう、という台詞を軽く受け流しながら、俺はニアをあそこから出すわけにはいかない、と思っていた。

そうして屋敷に帰ると、俺は着物を着換えに部屋に戻り、そのまま床には入らずにまっすぐ離れに向かった。
空は僅かに白みかけている。
あんなことの後だから、ニアがまた逃げようとするかもしれない、と思って入口にかけていた閂を外して中に入ると、ニアは奥の座敷で丸くなって静かに眠っていた。
女中が取り換えたのか、昨日とは違う新しい布団だ。
俺は少し、後ろ暗い気持ちになる。
それを打ち消すように掛け布団を剥ぐと、俺はニアの手首を握って布団の上に仰向けに押さえつけた。
目を覚ましたニアが、一瞬うっすらと俺を見、それからすぐに目を丸くして「あ、」と小さく呟いた。
白い頬が、青白くなる。
その頬に軽く口付けて、それから唇に移ると、ニアの眉根がきゅっと寄る。

「嫌な、匂い」

「は?」

一瞬、ニアが何を言っているか分らなかった。
もしや、と思って腕を持ち上げて鼻の先を着物に寄せると、どことなく、白粉の匂いがするようなしないような。
俺は思わず、ふっと笑った。

「湯を浴びて着物も着替えてきたんだけど。女の匂いっていうのはしつこいもんだな」

そう言うと、ニアは首を傾げて再び口を開こうとした。
俺はその口を塞いで、寝崩れている袷に手を伸ばす。
すると、ニアは震える手でそれを押し返した。

「メロ……、嫌です」

「どうして?一度したことだろう」

「い、嫌なものは嫌だ」

閉じ込めた時と同じように、一度手に入れればそれでしばらくは満足できるかと思っていた。
けれど、全然違う。
一度手に入れれば、もっと欲しくなる。
俺はニアの首筋に歯を立てながら、裾の間に手を差し入れた。
ニアは足をばたつかせて「嫌っ」と声を上げる。
その声には、すでに涙の色が滲んでいた。
それでも放さず、指先を後孔に宛がうと、ニアが突然肩をビクリと震わせて「痛い」と声を上げた。

「メロ、本当に、やめてください。切れたところが、痛い……、」

俺から視線を逸らして、壁の方を睨むようにしてニアは言った。
その頬が赤く染まっている。
もしやそれは、ニアにとっては屈辱的な言葉だったのかもしれない。

俺は布団の下の方へ身体を移動させると、ニアの細い足を掴んで開かせる。
ニアが悲鳴にならない声を上げた。
太腿と腰に手を当ててニアを引き寄せると、俺は「切れた」とニアが言った箇所に唇を寄せる。
軽く舌の先で触れると、ニアの震える声が零れた。

「や……っ、メロ、」

「消毒してやるよ、ちょっと大人しくしてろ」

「そんなこと、しなくていい……あっ」

左手で太腿を抱き寄せて、右手でニアのものを扱きながら舌で身体の中を侵していく。
ビクビクと震える身体を抱きながら、先ほどまで廓で味わったのとは比べ物にならないほどの恍惚に浸されていくのが分かった。


***

「ニアを、出してやったらどうだ」

やっぱりかよ、と思いながら、俺は欠伸を噛み殺して父親の正面に座っていた。
昼近くまで散々ニアの身体を愛撫していたせいで、すっかり寝そこなった。
そんな朦朧とした意識で聞く説教は、余計頭が痛い。

「あれのことは、口出ししないでいただきたい」

なるだけ抑えた声で、俺はそう返す。
父親の顔がピクリと反応した。
拒否されるとは思っていなかったのだろう。

「メロ、何故あの子を閉じ込めておこうとするんだ。ニアは頭もいいし、私も番頭も期待していたのに」

「代えならいくらでも効くでしょう、使用人なんだから。でも、俺にとっては代えが効かない」

「どういう意味だ?」

本当に、訳が分からないと言いたげな顔をしていた。
言った通りの意味だよ、と思いながら、俺は少しだけ口元を上げて、父親にまっすぐ言った。

「とにかく、ニアのことに関しては口出しは無用。近づけば、例え父上でも容赦しません」

俺を見つめる目が大きく見開かれる。
俺は気にせず立ち上がると、「店に戻ります」と言って部屋を出ようとした。
しかし、障子に手をかけた瞬間に、「待ちなさい!」という怒号が聞こえてきて、振り返ると襟を掴まれていた。
目前には怒りに顔を赤くした父親の顔が迫っている。

「女中に聞いたぞ。お前、ニアを手篭にしたそうじゃないか」

「だったら?」

「なんてことを!今すぐ出しなさい。自分が何をしているのか、分かってるのか!」

「煩い」

俺はカッと頭に血が上って、父親の袷を掴むと、力任せに床に投げ飛ばした。
そう若くはない体を畳に打ちつけて、父親が「ぐっ」とくぐもった声を上げる。
俺はゆらりと父親が先ほどまで座っていたところへ移動すると、壁際にかかっていた一本の日本刀を手に取った。
もし、力ずくでニアを外に出そうというなら。
容赦はしない。
すらりと鞘から刀を引き抜く。
畳に転がった父親が驚愕の表情で俺を見ていた。

「ニアのことに関して、口出しは一切無用だ」

パクパクと口を動かして、言葉を紡げない様子の父親を、俺は左肩から胸のあたりにかけて薙ぎ払うように斬った。
パッと鮮血が俺の着物と頬に飛ぶ。
死なない程度に浅く切ったが、それでも派手に血は出た。

父親が悲鳴を上げて、使用人が部屋に入ってきた後は、それはもうてんやわんやだった。
俺はぽいと畳に日本刀を投げ捨てると、最初にやってきた使用人に「医者を呼ぶように」と言って、悲鳴を聞きつけてわらわらと集まってきた使用人たちに持ち場に戻るよう 指示した。
3人だけ残らせ、一人には布団を敷かせ、一人には女中頭を呼びに行かせ、もう一人には手拭いを持ってくるよう指示をして、医者が来るまでに女中頭に応急措置をさせた。
自分でも信じられないほど落ち着いていた。
勘当になるなら、それでもいいと思っていた。
そうなったら、こんなところはさっさと出て、ニアを連れてもう一度最初からやり直せばいい。
お縄になるのも構わなかった。
無理やりにでもニアから引き離されれば、俺は少しはまともに戻るかもしれない。
これ以上、ニアを傷つけることもないだろう。

だが、俺が父親を斬りつけたことは、内々で処理されて表には出なかったどころか、俺は勘当されることもなく、まるで何事もなかったかのように若旦那であり続けた。
一人息子を勘当するわけにはいかなかったのか、それとも父親が伏せっていた間に俺が店を切り盛りすると、それまで低迷していた売上が上がるようになったせいか、 理由ははっきりとは分からないが、とりあえず俺は全くおとがめなしだった。
俺は大人しく、そして努めて真面目に店の仕事をこなした。
使用人たちにもきめ細かく配慮し、仕事の割り振りや仕入れもきっちりこなす。
ニアのことに口出ししなければ、全て完璧にこなしてやる、という意思表示のつもりだった。 うして父親は、それを呑んだ。
ニアのことに触れさえしなければ、俺はまさに理想的な跡取り息子なのだ。
ならば、目を瞑った方が良いと思ったのだろう。
俺は父親を安心させるために、「嫁ももらうし、子供だってつくるつもりはある」と言った。
それを聞くと、父親はますますニアのことを口にしなくなった。

理想的な状況だったかもしれない。
けれど、それは同時に泥沼だった。
俺にとっても、ニアにとっても。


そうしてニアのことは半ば公然と店の者に見て見ぬ振りされるようになった。
俺は父親の怪我が治ってからもほとんど店の仕事を切り盛りし、父親はもう隠居したようなものだった。
そのせいで忙しく、ニアの所に行けるのはほとんどが夜だった。
食事を持っていくことも、着物を届けてやることもままならないので、俺はそれまでの女中ではなく、まだ入ったばかりであまり使えない女中を一人、 ニアの世話係につけた。
しかし、それが間違いだった。

ニアは何を思ったか、その女と恋仲になったのだ。
忙しさにかまけて、離れに来ればニアの温もりを抱くことにしか神経が向いていなかった俺は、それに気づくのが遅れた。
気付いたのは、女中をつけて半年ほどたった日に、離れから漏れる濡れた声を聞いてからだ。
驚いて襖を開けると、  の布団に女中を縫いつけてその柔らかく熟れた身体にキスを落とすニアの姿が目に飛び込んできた。

「何を……、してる」

突然入ってきた俺に、ニアは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、次の瞬間には挑発的に笑んで、組み敷いた女中の唇にキスを落としたのだ。

「何?あなたも大概野暮なことを聞く。見て分かるでしょう。メロが私にしたのと、同じようなことですよ」

頭に血が上って、その後のことはよく覚えていない。
とにかく、今でも耳について離れないのは、狂ったような女の悲鳴と、部屋の隅でぼうっとした表情で俺と女を見つめているニアの、愉快そうな視線。
俺も大概壊れているが、こいつも相当壊れている。
そう思ったのだけ、はっきりと覚えている。

俺は散々女中を痛めつけたあげく、髪を引いて井戸に投げ込もうとした。
血相変えて出てきた使用人たちに止められてなんとか取り押さえられたが、その時女はほとんど正気を失っていた。
身体の傷が癒えるまで屋敷の奥座敷で介抱した後、その女中は大金を握らせて親元に帰らせた。
親元には、他の奉公人に手をつけられたのだ、と言って詫びたらしい。
全ては父親と店の者たちが始末したので、俺はよく知らない。

「どうして、あんなことをした?」

女中を引きずりまわした後、頭を冷やすために湯を浴びて離れを訪れると、ニアは相変わらず部屋の隅に座ったまま、口元を歪めて俺を見上げた。
何故だか、泣いているように見えた。

「彼女を、愛していたから」

思わず振り上げた手に、ニアは恐れたりしなかった。
まっすぐ俺を見上げている目は、俺を、間違いなく、恨んでいた。
結局俺は振り上げた手を頬には落さず、髪を掴んで引き寄せ、畳に押し倒した。

「愛しているなんて、」

どうして、俺以外に言う?
そう思ったけれど、そんなことは死んでも口に出来ない。
愛されることなんてないのに、それを求めて何になる。
虚しい、だけじゃないか。

それから、ニアの使用人は男に変えた。
ところが、ニアはそいつとも関係を持ち、俺は一晩じゅうそいつを竹刀で打ち据えて殺してしまうところだった。
二度目には、もう気付いていた。
ニアが俺に復讐しているんだってことに。
3人目の女中も、次の女中も同じ末路を辿った。


5人目になるあいつは、どうなるだろう。
煙管から細い糸を吐きながら、俺は思った。
開け放した窓から、北風に乗って雪が部屋の中まで吹いてくる。
吐き出した煙がゆらゆら揺れて、すぐに風にさらわれていった。

「寒い、何しているんですか、メロ。閉めてよ」

声がして、振り向くとニアが立っていた。
湯を浴びて髪がぺたりと頬に張り付いている。
いつも白い肌は、暖かそうにうっすらピンク色に色づいていた。

「縁側から眺める庭の雪、風情じゃないか」

「……雪は、嫌いです」

「そう?俺は好きだよ」

そう返してから、灰を火鉢の中に落とすと、俺は立ち上がった。
火鉢を部屋の中に入れて、窓を閉める。
ニアは抱きつくように火鉢の前に座ると、炭を加える。

俺は後ろからニアの身体を抱きしめると、火照った項に口を這わせた。
「メロ、放してください。折角湯を浴びたのに、汚れてしまう」

「失礼な奴、」

強く強く抱きしめたら、折れてしまいそうに細い体。
それを、俺は強く強く抱きしめる。
ニアが苦しがって身体を捩ったが、放さなかった。
いや、本当は放せないのだ。
どんなに嫌われても、憎まれても、絶対に放せない。

柔らかい銀髪に顔を埋めて「悪いな、」と呟いた声は、ニアの耳には届かなかっただろう。


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