***
10
「荷物持ち、よろしく」
そう言って、真昼間から堂々と連れ出された。
荷物持ちって、他の奴に頼んでよーと思いながらも、俺は海砂について外に出た。
最近は店の仕事も随分分かるようになってきて、任される仕事も増えたせいで、毎日が随分と充実している。
加えて、ニアと打ち解けてからは離れに入り浸っている時間も長くなったので、尚更海砂とゆっくり話をする時間がなかった。
ニアは、海砂から植えつけられていた先入観に比べればうんといい奴だった。
が、そんなことを言えば海砂は「とんでもない!」と声を上げて激怒するんだろうなぁ、と考えながら、俺は海砂の横をだらだらと歩いていた。
ニアは確かに冷たい感じがするし時々何を考えてんのか分かんないところがあるけど。
でも、笑ったしな。
俺はほんの3日ほど前に初めて見た、ニアの年相応に無邪気な笑顔を思い出した。
普段は意図的に、大人びて冷たい感じのする笑顔を装っているんだろう。
けれどそれは、なんのために?
「で、どうなの?」
「ん?何が?」
ニアの表情について考察を深めていた俺は、突如隣から声をかけれてちょっとビクッとした。
そんな俺を、怪訝そうな目で海砂が見ている。
「何がって、お囲い様の世話係よ」
俺はその言葉に、知らず知らずのうちに眉根を寄せていた。
「あのさぁ、その“お囲い様”ってのやめない?ニアも、好きであんなとこに閉じ込められてるんじゃないし」
そう言った途端、海砂の顔が盛大に顰まる。
薬を一気に仰いだみたいだ。
「何、マット、もう飼われちゃったわけ?」
「え?」
「だから、もうお囲い様と寝たの?それで、上手く丸めこまれちゃったってわけ?」
「なっ!違うよ!」
「ふぅーん?」
疑わしさ100%な視線。
俺は余計慌てる。
何て濡れ衣だ。
俺も、ニアも。
「本当に違うんだって。ただ……ニアに、どうしてあそこに閉じ込められるようになったか聞いたらさ……、なんか、不憫で」
「あのさ、まさかと思うけど、ニアが言ったことを信じたわけ?」
「え?そりゃ……信じたけど」
「馬っ鹿じゃないの?嘘に決まってんじゃん、そんなの」
「嘘?なんでさ」
今度は俺が顔を顰める番だった。
火鉢に視線を落として淡々と言葉を紡ぐニアの姿は、何処か哀しげで儚げで、とても嘘をついているようには見えなかった。
あえて表情を表さない顔は、自分の心を硬く閉ざしている証拠に見えた。
しかし、海砂は手をひらひらさせながら、「嘘よ、嘘」と断言している。
「その話に何人の使用人が騙されてると思ってんの?その話しして同情買って、使用人を自分の側に引き摺りこむのよ」
「えーと……、それは、何のために?」
「何って……よくは分かんないけど。でもまぁ、若旦那もおかしいけどあの人も相当おかしいわよ」
そう言って、海砂は何故かきゅっと唇を噛んだ。
俺は首を傾げる。
最初から、海砂はあの二人の話になると妙にむきになった。
そして同時に、憤りと哀しみが混ざった顔をする。
「ねぇ、海砂。ずっと聞きたかったんだけど……あの二人と、なんかあったの?」
海砂の表情に気が引けておずおずと尋ねると、海砂は歪んだ目で俺を見てから、小さく息を吐きだした。
「海砂が個人的になんかあったわけじゃないけど、」
「じゃあ、間接的には何かあったわけだ?」
「友達がね、」
「友達?」
首を傾げると、海砂は「そう、」と小さく呟いて語りだした。
「海砂が奉公に来始めた頃に、すごくよくしてくれた人なの。歳は同じくらいだったんだけど、あの子は小さい頃から奉公してたから、海砂よりもずっと仕事が出来て、
台所の仕事のこととか、すごく親切に教えてくれたのよ」
「その人、今は?」
「もう、いないわ。……3か月前に、暇を出されたの」
3か月前?
俺がちょうど奉公に来出した頃だ。
ということは、入れ替わりで店を辞めたということだ。
俺は、嫌な予感がして「まさか」と海砂の顔を覗きこんだ。
海砂は泣きたいのか怒りたいのか、よく分からない不安定な表情で頷く。
「ニアの世話係だったのよ。あの人だけは、絶対大丈夫だって思ってた。だって、いつもあの二人のことに眉をひそめてたから。でも、半年も経つ頃には、
ニアと深い仲になってたみたい」
「それって、ニアがその女中さんを誑かしたってこと?」
「そうよ。彼女が最初じゃないの。もう4人もよ」
「それで……、どうなったの?」
「どうなったって、これまでと一緒よ。若旦那様にバレて……」
「海砂?」
海砂は右手で口元を押さえて、気持ち悪そうに身体を屈めた。
俺は驚いて海砂に肩を貸すと、近くの茶屋の店先に腰を下ろす。
お茶をもらって海砂に渡すと、彼女は小さく震えながらそれを受け取った。
「バレたその日は、離れからすごい怒鳴り声がしてて……、それで、朝起きたら皆が庭先の縁側に集まって騒いでたの。何かしらって、軽い気持ちで行ってみたら……
長襦袢の恰好で、梅の木に縛り付けられてたの、」
「梅の木に?」
海砂は青白い顔で頷く。
よっぽど酷い姿だったんだろう。
具体的にどんなだったかは言わないが、海砂の表情を見ただけで大体は想像できる。
ただ長襦袢の姿で括りつけられていただけなら、こんな恐怖で歪んだ顔はしない。
「皆どうしたらいいか分らなくておろおろしてて見てたんだけど、縄を解いたりしたらきっと若旦那様が怒るだろうし、」
「じゃあ、そのままにしてたの?それだって同じくらい酷い、」
「だってしょうがないじゃない!もし助けたりしたら、今度ああなるのは自分なのよ!?」
海砂はヒステリックに叫んでから、お茶を置いて頭を抱えた。
それは、分かる。
でも、本当にそれでいいのか?
自分がよければそれでいいのかよ。
その女中だけじゃない、ニアだって、本当に見て見ぬふりして自分に火の粉が被らないようにするのが正しいのか?
俺は眉根を寄せて震える海砂の肩を見ていた。
捨てられる方は、もっと辛い。
自分一人だけが我慢すれば、なんて殊勝な気には、俺はとてもなれなかった。
俺を裏切った彼女も、旦那様も、店の奴らも、皆――――
「マット?」
名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
涙で目元を潤ませた海砂が、心配したように俺を覗きこんでいる。
俺は慌てて顔の前で手を振る。
「ごめん、大丈夫。それで、それからどうなったの」
過去の記憶から目の前の海砂に意識を集中させると、海砂は「うん、」と呟いて口を開いた。
「でも……、どうしても気になって、朝餉を食べてから残ったお米でおにぎり作って持っていったの。そしたら、海砂……、み、見ちゃったのよ」
「見たって、何を?」
「若旦那様が……」
そこで言葉を詰まらせて、膝に当てていた手をぎゅっと握る。
俺は咄嗟に、その手を強く握りしめた。
「若旦那様が、井戸の水を、頭から……」
「それって、いつの話し?」
「11月よ。もう、随分と寒かったわ。でも、若旦那様は容赦なく着物がぐっしょりになるまで水を浴びせて、それからそのままどっか行っちゃったの」
「酷い…」
「彼女、3日間そのままそこに縛り付けられてたわ。襦袢には血だってついてたし、顔も殴られて腫れてたし、本当はすぐにでも手当てしてあげなきゃいけなかったのに。
3日目にやっと縄を解かれて、介抱したんだけど……目もずっと虚ろで、結局傷が癒えてから親元に帰したの。いつも通りの言い訳と、たっぷりお金を握らせて」
俺は暫く言葉を発することが出来なかった。
「これまで世話係になった人たちは、皆同じよ。中には男の使用人もいたけど、おんなじように関係を持って、若旦那様にバレて足腰立たなくなるまで散々殴られて……
だから、お囲い様の世話係になると酷い目に合うって言って、皆恐がってるのよ」
「誰も、助けようとはしなかったの?」
「出来ないわよ。旦那様だって黙認してるのよ?海砂たちみたいな使用人に、何か出来るわけないじゃない」
「でも、酷い目にあってるのは……世話係も、ニアも、同じ使用人じゃないか」
「やめてよ!じゃあ、マットだったらどうするっていうの?ニアを外に出せって、若旦那様に反論できるわけ?」
俺は思わず、ぐっと息を呑みこむ。
海砂は、目を歪めたまま、口元を引き攣らせた。
どうしたらいいって言うのよ、と頼りなく呟く。
「もう分かんない。マットは……あの人をあんなふうにしたのは海砂だって、そう言いたいの」
「そういうわけじゃ……」
力なく言うと、海砂は両手で顔を覆って俯いてしまった。
細い彼女の肩を見ながら、俺は目を伏せて、小さな溜息を零した。
長閑な昼下がりに、その震える肩も重い溜息も、とても不釣り合いに見えた。
11
足音で、誰が来たのか大体分かる。
メロの足音は遠慮がない分、畳にも随分な振動が伝わってくる。
使用人の足跡は静かで、床の上を這うようにやってくるから、近くに来るまでほとんど気付かない。
離れの引き戸が開く音がした時、私は畳に仰向けに寝転がって天井を見上げていた。
マットだな、と思いながら、寝ころんだまま煙管を口に運ぶ。
メロが昨日の夜置き忘れていったものだ。
「ニア、寝たまま煙管なんて吸ってたら、危ないよ」
「大丈夫ですよ、灰落ちませんもん」
「でもさ、」
そう言って、マットが腰を下ろす音がする。
閉められた障子の向こうから、まだ昼間の太陽光が降り注いでいる。
夕餉にはまだ早すぎる時間に、何故マットがやってきたのかは分からなかった。
「あのさ、ニア」
「なんですか?」
よっこらせ、と身体を反転させて、畳に肘をつきながら煙管を吸う。
座ったマットは神妙な面持ちで私を見ていた。
「ニアは、ここから出たいとは思わないの?」
私はうんざりして答える。
「それ、前に言いませんでしたっけ?年がら年中思ってますよ、そんなことは」
「じゃあ、どうして出ていかないの」
「出られないから」
なんでそんなことを聞くんだろう、と思いながら、火鉢に灰を落とす。
マットの視線が右頬あたりに痛いくらい感じられた。
「出られないことはないだろ。窓だって開きっぱなしだし、」
「あなた、馬鹿ですか?」
「えっ」
「そんなことで出られるわけがないでしょう。こんな女物の着物を着て、当てもなく外に出て、それからどうしろって言うんです?今更実家になんて帰れない。
私に陰間にでもなれと?行くところがないんじゃ、閉じ込められてるのと同じです」
厳しい口調でそう言うと、マットは叱られた犬みたいにしゅんとして俯いてしまった。
ちょっと言い過ぎたかな、とも思ったが、私も気が立っていたので謝ることはしなかった。
しかし、マットは思いもよらないことを言い出した。
「じゃあさ……世話係になった使用人たちに、頼んだりはしなかったの?」
「え?」
「だって、無理じゃないだろ?使用人の着物を持ってきてもらって、外に出ればいいんだ。ここは開けっぱなしだし、裏口を使えば簡単に外に出れる。
使用人がその気になれば、その人の親元でもどこでも厄介になれるじゃないか」
「それは、」
動揺しないように、煙管を持つ指先に力を込めた。
そのことを、思わなかったわけじゃない。
でも、それは――――
「……そんなこと、本当にしてくれる人なんていないでしょう」
「でも、君のことが好きだったんだろ?」
「例え好きでも、そんな面倒なこと引き受けたりするもんですか」
「願ったことは?」
「ありません」
「じゃあ……願えよ」
「……え?」
何の話をしていたのか一瞬分からなくなってマットを見ると、先ほどまでとは違う芯の強い瞳が私を見ている。
願え?願うって、何を?
狼狽している私に、マットが言う。
「ここから……ここから出たいって、出してくれって、言えよ。そしたら、出してやるよ」
「マット?何を言ってるんです、」
「出してあげるよ。ニアが望めば、俺が出してやる」
咄嗟に「なんで?」と尋ねてしまっていた。
マットとは、セックスはおろかキスさえしていない。
どんなにからかったり挑発したりしてみても、マットは赤くなりこそすれ手を出そうとはしなかった。
私にはなんとなく、予感があった。
たぶん、マットには心に決めた人がいるんだろう。
よくは分からないけど、とても好きな人がいるに違いない。
それなのに、何故危険を冒してまでも私を助けようというのだ?
「マット……分かってるんですか?そんなことをすれば、あなたもただじゃ済みませんよ」
「ニア、俺……梅屋のお嬢様と、付き合ってたんだ」
「えっ?」
突然、マットが口走った言葉に、私は耳を疑った。
落ちない、と言っていた灰がはらりと落ちて畳の焦げる匂いがしたが、私は目を丸くしたまま動けずにいた。
今、なんと言った?
梅屋のお嬢様と、マットが?
「梅屋って……前にマットが奉公していた隣町の呉服屋じゃないですか」
「そうだよ。俺、そこのお嬢さんに手を出して奉公替えさせられたんだ」
「あぁ、」
なるほど、そういうことだったのか。
私は起き上がって煙管を盆の上に置くと、マットの向かいに座った。
マットはひどく罰の悪そうな顔をしている。
「俺、小さい頃から梅屋でお世話になってたんだ。お嬢様は身体が弱くって、いつも離れで養生してた。そこに食事を運ぶのが俺の役目で、それで仲良くなったんだ」
まるで今の私たちみたいですね、と言おうかと思ったが、水を差すのは悪いと思ったので黙っていた。
「お嬢様は身体が弱かったから滅多に外には出られなくって、それで、一日二回は必ず顔を見せる俺と仲良くなってくれた。俺はお嬢様に喜んでもらうのが嬉しくて、
小遣いで買った簪なんかをあげたりして……そのうち、好きになってたんだ。でも、それは向こうもおんなじで……だから、俺たちはこっそり付き合うようになった」
「お店にばれたら一大事ですからね」
「うん。でも、年頃になると俺は食事を運ぶ仕事から外されて、お嬢様にはちゃんとした女の付き人がつくようになった。でも、その頃からお嬢様はちょっとずつ元気に
なってて、お店にも時々顔を出すようになってたし、外にも出れるようになってた。だから、約束して外でこっそり会ったりしてたんだ。お嬢様は俺に……」
どうしました?と問うと、マットは膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
唇を噛んだ表情は、痛々しい。
「俺に、入り婿になってくれって」
「それは……、」
まぁ、確かに奉公人が入り婿になるのは別にそんなに珍しい話ではないだろう。
ただ、生活していくに十分な給金をもらっているのなら入り婿にはなるな、と言われていて、入り婿は気苦労が多いからなかなか望んでやるような人はいない。
特に奉公人上がりだと店の者がなかなか頼りにしてくれなくて肩身が狭いとか。
「入り婿といえば気苦労耐えないですからね。悩むところですが、」
「いや……もし、本当にそうなれるならいいなって、思ったんだ」
「それは、酔狂なことです」
そう言った後、しまったな、と思った。
よほどそのお嬢様のことが好きだったんだろう。
「でも、俺はただの奉公人だしさ。旦那様が許してくれるかどうかも分からない。そのうち、二人の関係が旦那様にばれて、」
「……それで?」
マットの表情を見れば、結果は分かったも同然だった。
マットは暗い顔で腕を捲ると、まだ生々しい傷痕を見せた。
右腕から手首のあたりまでざっくりと、刀傷が残っている。
「この通りだよ。まぁ、当然だよな。一人娘を疵物にされたんだからさ」
「その、梅屋のお嬢様は?」
「庇ってくれたよ。それから、結婚したいとも婿入りを許してくれとも言った。でも、旦那様は真っ赤になって怒る一方さ。俺はしこたま殴られて蔵に閉じ込められて
3日は水ももらえなかった」
「そう……」
かける言葉が見つからなかった。
同情を買う話をするのは得意だが、逆に同情するのは慣れていない。
むしろ、マットが私と同じように同情を欲してはいないというのが痛いほど分かって対応に困った。
ただ、眉根を寄せて相槌を打つくらいしかできない。
「で、こっからが面白いんだけどさ。10日経って漸く外に出してもらえたら、お嬢様の縁談の話がまとまってたってわけ」
「………は?」
何が面白いのかも分からなったし、どっから突然縁談の話が沸いて出てきたのかも分からなかった。
マットは無理に笑顔を取り繕って、捨てられたんだよ、と言った。
「お嬢様は旦那様や女将さんに説得されて、俺を捨てたんだ。お前はあいつに誑かされてたんだ、あいつはこの店が欲しいだけだ、とか言ってさ。
で、俺は話を外に一切漏らすなって脅された挙句に、金を握らされてさっさと店から出されちゃったわけ。俺が変な気起こさないように、新しい奉公先まで用意してさ。
本当、用意周到だよな」
「マット…」
「俺さ、結構まじめに働いてたし、店の奴らからも結構頼りにされてたんだよなぁ。でも、誰も助けてくれなかった」
マットはぐにゃりと目を歪めて、強く下唇を噛む。
そんなに噛んだら、切れてしまう、と心配になるほど、強く。
「そりゃ、お嬢さんに捨てられたのは哀しかったよ。でも、誰か一人でもお嬢様を説得してくれてれば、って思ったんだ。俺が店を乗っ取るためにお嬢様に近づいたんじゃ
ないってこととか、あいつはそんな奴じゃないとか、少しは俺を庇ってくれれば……」
マットが、使用人たちのことを「自分の安全のために、ニアを売ったようなもんじゃないか」と表情を険しくして避難したわけが分かった。
つまり、自分も同じことをされていたってことか。
だから、私の気持ちを分かってくれたのか。
「俺だけが全部飲みこんで、それまで積み上げてきたものを全部捨てて出ていけば、全てが丸く収まる。皆がそう思っているのが、はっきり分かったよ。
どうしようもなく苦しかったし、悔しかった。でも、どうすることもできなくて……あいつらは、自分の保身のために俺を売ったんだ」
そう言うと、マットは顔を上げて、「だから」と言った。
「だから、俺は君を助ける」
「マット、」
「俺はあいつらと同じことはしない。俺は、ニアのことを愛してるとかそんなんじゃないけど、でも、ニアのことは友達だと思ってるよ。同じ使用人として、さ」
そう言って、マットは私に手を伸ばす。
私はその手を見つめて、返す言葉を失った。
私が喜んでその手を取ると思っていたらしいマットは、首を傾げて私を見ている。
「ニア?」
「私は……、」
私が、ここを出たら。
あいつは泣くだろうか。
ふと、そんなことを思った。
使用人たちに、「ここから出して」と本気で願わなかった、本当の理由は。
私も、共犯だからなのだ。
私も、やっていることはメロと同じなんだ。
でも、私だけが、ここを出てもいいのか。
傷ついた顔で、私と女中を見下ろしたメロの顔が蘇った。
あの顔が見たかった。
女中を手篭にしたのは、使用人への復讐で、メロへの復讐で。
でも、あの顔を見たら。
私のことで傷ついたメロの顔を見ていたら、私はどうしようもなく。
あの人が――――、愛しくなってしまった。
メロへの復讐は、きっと屈折した感情の、裏返しなのだ。
私のことで傷ついて、哀しんで、もっと私に縛られていくメロが、本当は、私は、
「……出して下さい」
「ニア、」
「ここから、出して」
強く手を握ってマットを見上げると、マットは、力強く頷いた。
もう潮時なのだ、と思った。
あとどれくらい、このままでいられるというんだろう。
もう、私もメロもきっと縛られるのをやめるべきなんだ。
お互いの首に深く噛みついた鎖を引き千切れば、私もメロもきっと、楽になれる。
それならば、私から、その鎖を切ってあげよう。
マットに手を引かれて、私は長年絡みついていた鎖を、切った。
12
仕入れを終えて店に戻ってきた途端に、ざわついている、と思った。
よく分からないが、なんだか騒々しい。
眉をひそめて番頭に「何かあったか」と聞けば、番頭が引き攣った笑みを寄越した。
「はぁ、いや……」
「なんだよ、はっきり言え。何かあったんだな?」
「はぁ、実は……昼過ぎあたりから、マットが行方知れずでして」
「行方知れず?」
客に聞こえないよう抑えた声で尋ねれば、番頭は渋い顔をして頷いた。
午前中は女中と一緒に買い出しに行っていたそうだが、その後帰って来てから姿が見えないという。
俺は嫌な予感がして口を開いた。
なにせ、あいつは梅屋から押し付けられたようなものなのだ。
知っているのは俺と親父くらいだが、大人しそうな顔をしてマットは梅屋の一人娘を手玉に取っていたらしい。
「店の金は?」
「手をつけられた様子はありません」
「そうか」
店の金を持ち逃げしたというわけではないようだ。
まぁ、もしそうだとしたら店中もっと大騒ぎになっているだろうが。
そこで、俺はハッとした。
もっと違う意味で胸の奥がざわざわして、嫌な予感がする。
俺はまだ何やら話している番頭を無視して奥の座敷に上がると、まっすぐ離れに向かう。
まさか、とは思う。
あいつは多分、まだニアと深い仲にはなっていない。
ただの勘だが、今までの奴は大抵ニアとセックスしたかどうか、なんとなく分かっていた。
けれど、あいつはまったく色目でニアを見てはいなかったし、ニアも特に意識しているようには見えなかった。
いや、しかし、もしかしたら――――
「ニア!?」
声を上げて襖を開けたが、そこにニアはいなかった。
火鉢の炭はすっかり白くなり、しんと冷たい二間続きの座敷が俺を出迎えただけ。
探すところなんてないのに、俺は部屋に入ると辺りを見回してニアの名を呼んだ。
しかし、当然のごとくニアから返事はない。
「あいつ……!」
ニアを連れて、出て行ったのだ。
マットをニアの世話係にしたのをひどく後悔したが、後の祭りだ。
今はそんなことを悔やんでいるより、やらなければいけないことがある。
探さなければ、ニアを。
けれど、一体どこへ?
俺は帳場へ戻るとマットの生家を調べた。
江戸の外れの田舎町だ。
だが、ニアを連れて田舎に帰ったりするだろうか。
あまりにもありきたり過ぎて、すぐに見つけられると気付くに違いない。
例えマットが気付かなくても、ニアが気付く。
あいつは頭がいいのだ。
俺はほとんど当てもなく店を飛び出していた。
どこを探せばいいのかなんて、分からない。
けれど、風を切るように足が勝手に動いた。
切れた鎖の先を、手繰り寄せるように。
13
「夜が明けたら、船に乗って西国に行く」
てっきり田舎にでも戻るかと思いきや、マットはそう言って私を船着き場の近くにある宿に引っ張り込んだ。
私はマットの着物を着て、「男のくせに足が白いと怪しまれる」と言うので、足に泥を塗りたくって小汚くして宿に上がった。
マットは店からお金ではなく、何故か旦那様の日本刀を持ち出していた。
メロが旦那様を切った時に使った件の刀だ。
縁起が悪いというので蔵にしまわれていたそれを、こっそりくすねてきていた。
西国って、結構野蛮なとこらしいから、護身用に、とか何とか言って。
「西国に行って、どうするんですか?」
「母親の親戚がいるんだ。親戚のよしみで助けてもらう。土下座してでも仕事もらうから、ニアは心配しなくていいよ」
「ありがとうございます」
黴くさい布団に包まりながら、私は小さく零した。
立てつけの悪い窓の隙間から、大きな月が出ていた。
狭い部屋は、ぼんやりと明るい。
これからどうなるか、ちっとも不安ではなかった。
それよりも、今頃メロはどうしているだろうか、とそんなことを考えていた。
逆上して店の者たちを斬ったりしていなければいいが。
それとも、私がいなくなって安堵しているかもしれない。
これで、また元の生活に戻れる、という風に。
嫁だって迎えて子供も作って、大店の旦那として順風満帆にやっていくのかも。
「………ニア?」
「なんでもありません」
震えそうになる声を押し殺して、私は布団に包まり直した。
もうやめると決めた。
あいつのことで傷ついたり、しない。
***
明けて宿を出ると、私たちは桟橋の近くに腰かけて船が出るのを待った。
時々そよそよと風が吹いて、もっと下流の潮の香りを微かに運んでくるような気がした。
「ニア」
「なんですか?」
「……本当に、行くの?」
ここまで来て怖気づいたのか?と思いながらマットを見ると、マットは眉根を寄せて私を見ている。
その顔を見て、マットは怖気づいたわけではなく、私の本当の気持ちを聞いているのだ、と思った。
もしかしたら昨日のことで、マットは何かしら気付いてしまったのかもしれない。
緩やかに吹く風が、髪をかき上げて頬に張り付く。
私は狭い川の先を見つめた。
あの先には、海がある。
海を下って、西国に行けば、メロに会うことはもうないだろう。
あの人がどうなろうと、私は想像しかできないし、知らない分だけ幸せになれるに違いない。
マットの親戚の店で仕事がもらえれば、また一からやり直せるのだ。
もう一度、最初から。
メロのことは、そのうち塞がった傷痕のように、薄れて行くに違いない。
強い風が吹いて、睫毛がそよいだ。
その下から、風に掬われるように、ぽとりと雫が落ちた。
傍らのマットは、黙って私の横顔を見つめている。
「マット、私は―――――」
「―――――ニアっ!」
私の言葉を打ち消す大声が船着き場にこだました。
驚いて川から岸辺に顔を向けると、息を切らして、真冬にもかかわらず頭から水でも被ったのかと思うほど汗だくになったメロが立っていた。
立っていた、というより、走っていた姿勢のまま私を見つけて、そのまま制止してしまった、という感じ。
着物はほとんど肌蹴ていたし、草鞋を履いた足は所々皮膚が裂けて血が滲んでいる。
まさか、と思って私は目を丸くした。
まさか、一晩中ずっと、私を探していたのか?
「メロ……」
そう呟いたのと同時に、メロが止まっていた足を前に出して、転がりそうな勢いで船着き場までやってきた。
そうして、ほとんど瞬きする暇すらなく、私はその腕に抱かれていた。
メロの着物は冷えていて、それなのに対照的に身体はひどく熱かった。
セックスしている時よりも、もっとずっと。
「馬鹿が……っ」
背中の着物をぎゅっと握りしめて、メロは奥歯を噛んだ声で言う。
それでも、カチカチと震えているのが耳元に届いた。
私はメロの肩越しに、空を見ていた。
抜けるように蒼い、冬の空だ。
「ニア、」
ふと声がして、視線を声のした方に向けるとマットが静かに私を見下ろしていた。
その手には、例の刀がしっかりと握られている。
目を丸くして、何をするつもり?と聞こうとしたのと同時に、マットがすらりと刀を抜いた。
「ニア、捕らわれていたのは君も一緒だったんだな」
「マット、何を……」
「俺は君を助けるって言った。望めば……その腕から解放してあげる。鎖を断ち切って、やるよ」
「メロを、斬るつもり……?」
それを聞くと、メロは私から身体を放してマットを見た。
二人の視線が合わさると、メロは何故か、ふっと笑う。
「斬れよ、」
「メロ!?」
私が驚いて声を上げると、メロはマットから視線を下げて、俯いた。
「もう、自分じゃどうしたらいいか分らない。先にも進めないし、後にも戻れない。俺たちは行き止まりなんだ」
肌を滑った雫がぽたりと落ちた。
汗か、涙かは分からない。
とても思いつめた表情で、メロは自嘲する。
「さすがに死ねば、この手を放してやれるだろうさ。お前に覚悟があるんなら、斬れよ」
「覚悟なら、あるよ。本当は、旦那様を斬ってお嬢様を連れていくつもりだったんだ」
「……梅屋の、か」
「お嬢様が望めば、ね。でも、結局彼女は自分と店の将来を考えて、大店の次男坊との縁談を決めたんだ」
マットはそう言って、ゆらりと刃先を持ち上げた。
往来を歩いていた人々が、日差しを反射いてきらりと瞬いた刃に声を上げる。
その刃を見た途端、私は離れていたメロの身体を抱きしめると、その身体にきつく抱きついていた。
「やめてください!マット」
「どうして?いつまでも捕らわれ続けているつもりなのかよ」
「それでもいい。本当は、私は――――っ」
驚いた様子のメロが、私の掌の下で身体を硬くするのが分かる。
閉じ込められた時も、身体を組み敷かれた時も、最初はそれは嫌だった。
嫌で嫌で堪らなくって、いっそメロを殺してやろうと思った。
それなのに、メロはいつも泣きそうな顔をして私にキスをして、憎まれ口を叩けばそれを真に受けたかのように哀しそうに目を伏せる。
傷つけるために言ったつもりなのに、実際にそんな顔を目の当たりにすると胸が痛んで、私はそれが余計気に入らなかった。
でも、そうしてメロと身体を繋げているうちに、分かってしまったのだ。
メロがいつも、泣いている理由が。
メロは、寂しいんだ。
周りにはいつもたくさんの人がいるけれど、メロの心はずっと一人だった。
暗くぽっかりと空いた穴を、私に塞いでもらおうと、ずっと抗っているのだ。
そのことに気付いて、私は動揺した。
そんなことを、私に求められても困る。
私はメロを恨んでいて、憎んでいなければならないのだ。
私から平穏な日常と外の世界を奪ったメロを、恨んでいなければならない。
それなのに、メロは私に。
私に、「自分を愛せ」と、そう言うのか。
そんなことは出来ない、と思うのに、私はメロを見捨てることが出来なかった。
時々、セックスせずに布団に入った夜なんかに、メロが私を強く抱きしめて泣いているのを見たりすると。
その手に、自分の手を重ねてしまうことさえあった。
私は戸惑っていた。
メロを好きになってしまいそうな自分に。
「私は、あなたを恨んで憎んで、叶うなら殺したいと思いたいほど、嫌っていなければならないのに」
そう呟くと、メロの目が哀しげに歪んだ。
その顔だ、その顔をされると、胸の奥が重く軋んだ音を上げる。
女中を手篭にしたのは、メロに傾きそうになる心を繋ぎとめるためだった。
他の人間と深く関わって、身体を重ねて、愛することが出来れば。
私はまた、メロを憎く思うようになるに違いない。
そう、思っていたのに。
私たちを見下ろしたメロの目を見返した瞬間に、私は。
傷ついた顔を、見てしまったら、私のことで傷ついたメロの顔を見ていたら、私は、もうどうしようもなく。
メロが――――、愛しくなってしまった。
「……私も大概、歪んでますね」
力なく言うと、哀しげな目をしたメロの頬を包んだ。
メロが好きだなんて、認めたくなかった、認めてはいけないと思っていた。
屈折した感情は、捩れて、捻れて、メロを傷つけた。
自分だって傷つくって、分かっていたのに。
私は、素直になれない。
「ごめんね、メロ」
私を見つめたメロの目が、大きく見開かれる。
私はその瞳から逃れるように、顔を伏せた。
「恨んでいいのは、本当はあなたの方なんですよ、」
「ニア、」
「なのに、メロは私を愛しているんですね」
私はメロの頬から手を放して、呟いた。
けれど、落ちる手を途中で掴んで、メロが私に言った。
「帰ろう、ニア」
「………え?」
「一緒に帰ってほしい。でも、俺はもうお前をあそこに閉じ込めたりしない」
「……メロ、」
真摯な瞳が私をくっきりとその眼に映し込んでいる。
「父親も、店の奴らも、絶対に納得させる。何があっても、この手を放したりしないから、だから……だから、どこにもいかないでほしい」
絡めた掌に唇を寄せて、メロが言った。
祈るように強く閉じた瞳から、涙が零れる。
暖かいメロの唇の感触が、私の手の甲を温めていた。
「私を、内儀にでもするつもりですか」
「内儀なんていらない。店は俺一人でもなんとかしてみせる。子供だって、養子をもらえばなんとかなる」
「そんな甘いもんじゃありませんよ」
「分かってるさ。それでも、俺はこの手を放したくない。辛い思いをさせるかもしれないけれど……それでも」
続く言葉を言う前に、私は思わず笑っていた。
この人は、馬鹿だ。
なんで私なんかのために、辛い人生を選ぶんだろう。
どうして私を、選んでくれるんだろう。
「――――わかりました」
「え?」
絡めた手にぐっと力を入れると、メロは閉じていた目を開けて、濡れた瞳で私を見た。
私は袖の先でメロの頬をグイッと擦る。
泣いてないで、笑え、と思った。
「ずっと、そばにいてあげるから」
そう言って笑った瞬間、勢いよく抱きしめられた。
私は初めて、その背中に自分から腕を回す。
汗と埃でまみれた背中。
でも、ずっと欲しかったものだ。
「あーあ、なんだよ。ニアを連れて西国へ逃避行しようと思ってたのになぁ」
マットの声がして、私とメロは「あっ」と声を上げて身体を放した。
見上げると、マットはにやりと笑って、
「俺のことは気にしないで、」
と悪戯っぽく言う。
それから、右手に持っていた刀と鞘を、川に投げ込んで捨ててしまった。
「ニア、メロなら大丈夫だよ」
「マット、」
「俺もさ、本当はその言葉を言って欲しかったんだ。そうしたら、あの小さい手をしっかり握って、どんなに辛いことがあっても放さなかったのにな」
そう言って、目尻を下げて少しだけ哀しそうに笑う。
けれど、その顔にさほどの憂いは含まれておらず、
「俺も一緒に帰っていいんだよね?」
とおどけた様子で聞いた。
メロは膝をはたいて立ち上がると、私の腕をとってを立ち上がらせ、マットに言った。
「もちろんさ、」
「ありがとう。お詫びに、俺も陰ながら店と二人を支えるからさ」
少し照れくさそうに笑ったマットに、私もメロも同じように笑みを零した。
その時、背後から波を押し分けて近づいてくる音がした。
振り返ると、船着き場にちょうど一つの船が着いたところだった。
私たちが乗る予定だった船だ。
船着き場に三人でごちゃごちゃ固まっている私たちに、船の上から声がかかる。
「お三方、乗るのかい?」
振り返ったメロが、私の手を握って首を横に振る。
「いや、乗らない」
「そうかい、じゃあ、出すぜ」
「あぁ、」
遠ざかっていく船を見つめながら、頭の後ろで手を組んだマットが、俺たちもだな、と独り言のように言う。
「俺たちも、ここから新しい船出だな」
「そうだな」
「えぇ」
握った手を強く握る。
メロはそれよりももっと、強く強く握り返す。
「帰ろうか」
投げかけられた言葉に頷いて、私は足を踏み出した。
帰っていく先には、きっとどうしようもないくらい大きな問題が待っているけど。
でもまぁ、大丈夫だろう。
朝日に伸びる三つの影を見つめながら、私は少しだけ笑った。
一日は、まだ始まったばかりだ。
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